『1秒先の彼』(2023)

清原果耶がドン臭いカメラ女子やっても地味子にはならないだろう。写真部は果耶ひとりだけというが、サークルクラッシュの痕跡じゃないか。この人は然るべき場所に放り込めば入れ食いになると思わせるから、片思いの切実さからは程遠い。


偶然の濫用も筋の品位を損なうばかりでなく構造的に響いてくる。「女ひとり」女が引き立て役に過ぎないとしても、美人局の現場を押さえる件は投げやりが過ぎる。何よりも、時間停止のからくりを落語の駄洒落オチのような説明で済ませてしまう志の低さ。岡田将生に失われた一日を発覚させたのも生理的偶然に過ぎない。


しかし、創作上の様々な弊にもかかわらず、メルヘンが通ってしまう奇跡がある。荒川良々である。彼の介在ならば宇宙改変もやむなしのようなタイプキャストの説得力が身一つでメルヘンを発効させてしまう。『首』(2023)で良々の境界的性格は指摘した。彼の舞によって現代と中世の死生観は交雑し秀吉を混乱させた。


メルヘンが通れば浜辺のストーキングが愛らしくなるが、帰路のバスでまたしても偶然がぶち壊しにかかる。良々のバスに加藤雅也が乗り合わせていた。これは悪しき偶然にとどまらず、良々の通したメルヘンを破壊してしまう。加藤が謎の一日を駄洒落オチで解説しメルヘンを徹底的に俗化する。


ただ、メルヘンだからこそストーキングがほのぼのしたように、通俗化にも役割はある。メルヘンは棄却されたのだから法則を曲げた女は宇宙にとどまれなくなり遭難する。


課題のボールは今や男の手元にある。問われるのは女と再会する方法だ。泣き癒し系のお膳立ては整いハンカチを用意する頃合いになるが、低い志はこのチャンスをものにできない。駄洒落オチを伏線にすれば梶尾真治がやれたのではないか。ドン臭いから一日が捻出できたのであれば、1秒先の男も逆の形で宇宙を改変できはしないか。ここに男女の交点を実現できるアイデアが埋まってはいなかったか。


本作が提供するのは恢復した女が男に告る顛末でしかない。これは志が低いばかりではない。女の告りが話の根本的な欠陥を明解にしてしまう。


原作は未見だから推測を交えた話になるが、『1秒先の彼女』ではカメラ男子が美女を見初める。清原果耶の顔をしたカメラ女子がポストマンを好く本作とは悲壮感において雲泥の差がある。カメラ男子がストーキングをやれば洒落にならないが、キモさこそ切実さの証でもある。


数々の偶然も都合のよい宇宙改変も未成熟な男のメルヘンチックな他力本願を寓話化している。最後の告るのが男ならば筋は通る。叙述されてきた様々なハードルはオスが成熟するための通過儀礼だったと解釈できる。果耶が告っても最初から告れという話にしかならないだろう。


男には男の地獄があり女には女の地獄がある。男の地獄を描くために想定された筋は、女の地獄には転用できないのである。