アンドレアス・エシュバッハ『NSA』

NSA 上 (ハヤカワ文庫SF)英語圏の歴史改変SFと比較すれば、ドイツ社会を叙述するにあたり援用される知見の質に大きな違いがある。ヒトラーの出番は一場面にすぎないが、その言動は伝記を踏まえた造形を越えたりはしない。主人公男が官邸でヒトラーと面会するプロセスに費やされる情報量は、SFではなく社会経済小説のそれである。


物語の前提にあるのは非集権的カオスによって機能不全に陥っているドイツ行政である。ヒロインの職場はプレッシャーに晒されている。公安機関は乱立重複し、業績がなければ整理統合の対象になりかねない。殊に男性職員には死活問題である。職場がなくなれば招集されてしまう。


ヒロインの上司が愚痴る。

ドイツ国をよく見てみると、国の行政構造に競争があるのが特徴だ。われわれには、すべての部署に厳密に決められた職務を割り振る整合性のとれたシステムがない。誰も人の領分を荒らさないどころか、その反対だ。複数の役所がほかの役所と同じ仕事を異なる方法でしていて、いつも互いに張り合っていて、より大きな影響力を手に入れようと必死だ。総統閣下がこの状態を許容しておられるのなら、こういうやり方のほうが結局はうまくいくとお考えなのだろう。


作者はこの人物を使って史学の知見を踏まえているとアピールする。


冒頭でヒロインの職場をヒムラーが視察する。部署の有用性を訴えるべくヒロインたちはデータ解析でSSの家宅捜査を支援する。ふたつのスリラーがこの場面に去来する。試みが失敗すれば職場はなくなり男たちは東部戦線送りである。一方で、ドイツ行政の混沌を踏まえると緊張は前向きになる。やってることが人権侵害にもかかわらず、部門間の連携が成功し行政が正されてほしいと願望してしまう。


この倒錯はおそらく意図である。ゲシュタポは当時のドイツ行政組織の中では例外的な存在だった*1。集権的で効率的な組織運用により国家内国家として自律し、非集権カオスと競合しつつあった。ヒムラーの登壇はこの史実を踏まえる。


ヒロインは見合いを強いられる。相手もゲシュタポの将校である。彼女はこの男を嫌う。ヒロインはリベラルだからゲシュタポを嫌って当然なのだが、信条以上に男の外貌に耐えられない。彼は醜男である。ヒロインは食後に嘔吐の衝動に駆られる。


これはまことに政治的に正しくない。リベラルとゲシュタポを思想的に対立させるのなら、男はイケメンにすべきだろう。容貌が怪異ならば嫌悪の対象が思想なのか否か曖昧になる。何よりも男が同情を惹いてしまえば思想への嫌悪が緩和しかねない。しかし、この相対化も故意ではなかろうか。


ヒロインにはユダヤ人の追放が意味不明である。女のリベラルな疑問に際した男は、気分を害するどころか、ユダヤ系の親友を失ったヒロインの境遇に理解すら示す。女の質問に答えるにあたって男が援用するのはナチス農本主義である。曰く、ユダヤ人は離散の結果、土との関りを失った。大地から引き離された民族は社会の不安定要因になる。


近代化から取り残された農村の荒廃がワイマール共和国を不安定にした。農村の近代化とは小作農の自作農化である。今から見ればソ連侵攻は意味不明だが、このメカニズムに意識的だったナチズムは、本国の小作農を東欧やウクライナに移民させ自作農化しようとした。土地の再配分で私有財産制を犯すことなく、農村の近代化を達成しようとした。アンチセミティズムはこの副産物だと考えられる。


作者は続いて男にマダガスカル計画に言及させ、ホロコーストの相対化を試みる。曰く、大地との関わりを失ったのなら彼らだけの国を持たせ、土とのつながりを復活させるべきである。候補地はマダガスカルバトル・オブ・ブリテン終結後、制海権がこちらの手に渡ってから植民は開始される。それまで彼らはポーランドのゲットーに留め置かれる。


行政の混沌を危惧したヒロインの上司は車椅子である。彼は仕事ができる。ヒロインの能力を評価し、女性の参加しない会議に彼女を加えようとする。ゲシュタポの男もヒロインの仕事に敬意を払う。彼女の成功に誇らしげになる。作者はふたりの男に身体の欠陥を設定して相対的な立場に据え、物語を裏付ける知見の代弁者にする。そこに渦巻くのは歴史改変SFの怨念。失敗した歴史に対するくやしさである。


なぜユダヤ人の植民計画がホロコーストに飛躍したのか。英は降伏しない。ゲットーには行き先のない欧州中のユダヤ人が次々と流入する。東部に戦端は開かれ部門間のリソースの取り合いはいよいよ熾烈になる。機能派の解釈ではホロコーストは非集権的行政の壮大なしくじりである。ゲットーの管理が端的に破綻したのである。


出来損ないの国家しか作れなかった。出来損ないゆえに重大な人権侵害を引き起こしてしまった。もし行政がまともだったら、あそこまでひどい人権侵害には至らなかったかもしれない。マダガスカル計画に言及させ、暗に機能説に作者を拠らせるのはこのくやしさである。くやしさから冒頭の家宅捜査が活劇になってしまう。バークレーのサーバーから原爆資料を盗む件では、リベラルなヒロインまでもダメと分かっていながら仕事を愉しんでしまう。


ゲシュタポの将校とヒロインの上司はかくあってほしい集権的な行政をミクロに体現する人物である。対して、ヒロインとその周縁は非集権的カオスを代表する。ゆえに印象がよろしくない。


主人公男は老いた母と二人暮らしである。ネットから病院を予約できない母は、幾度も息子の助けを乞う。これだけなら、ITリテラシーの問題にすぎないが、母は息子に愚痴り出す。なぜ以前のように口頭で予約できなくなったのか。人手不足で受付がいなくなった。母はこのマクロ状況に理解を示さない。


主人公男はプログラムの独習を試みる。プログラムを男が書くとゲイ扱いされる世界観である。彼は母の名で教科書を注文する。届いた荷物を、息子宛と知りながら母は開封しようとする。このひとは所有概念が薄い。


ヒロインは五月祭でチャラ男と知り合う。ふたりはオタ話で意気投合するも何事もなく別れる。ヒロインに恋心が生じる。チャラ男は戦場へ行き、脱走兵として再び彼女の前に現れる。これはよろしくない。会うだけで相手にリスクを負わせるから、ヒロインを想うのなら会うべきではない。チャラ男は彼女の好意心を見透かし、無意識にせよ女を利用している。


ヒロインは男の目論見通りに匿いの決意をして、親友に相談する。これでヒロインへの好感も失われる。親友にリスクを負わせてしまう感覚が気にくわない。


チャラ男は友人宅の屋根裏部屋に匿われる。ヒロインにも所有概念の欠ける面があり、同僚の秘蔵するゴムをくすねてはチャラ男と屋根裏部屋でセックスに励む。ゴムは禁制品なのである。


行政のカオスがミクロスケールではヒロインたちの利己的行動や脆弱な所有概念となって現れるように見える。マシンの私的使用にしてもそうだ。


ヒロインはチャラ男を守るべく職権乱用してデータベースから彼の痕跡を消しまくる。これなどは同情に値するが、主人公男の方は市井に人々のプライバシーを暴きゆすりのネタに使っていく。ログを見れば一目瞭然の違法行為をヒロインも主人公男も躊躇しない。


これは作者ではなく行政が杜撰なのである。職場がゲシュタポに吸収されて職員が送り込まれると、30分も経たないうちに彼らの不正が発覚する。


クビになり自宅軟禁されたヒロインはゲシュタポの男と取引して、チャラ男を南米に逃れさせる。女は厭々男と結婚する。


女も南米へ密航を試みる。有能な夫はこれを見逃さないが、事件をもみ消し不問にする。女は夫との生活に耐え切れない余り、ヒトラーの悪口をツイートして自爆炎上する。夫はテンパり、再びもみ消しを試みる。今回は間に合わずヒロインは収監される。


わたしのギャルゲ恋愛脳には不可解になってくる。どれだけこの男はヒロインに惚れているのだ。世間体というには情熱がありすぎる。日常でも男は夫としては模範的である。献身的な男を嫌う心理もあるのだろうが、他方でこの男は超有能である。これでは夫が好きになってしまわないか。少しくらいは情が移りはしないか。


ヒロインは収容所で開頭され配線をいじられる。ニューラルネットワークの研究もなぜか進んでいるのだ。ヒロインの行為は精神のプログラムエラーと解され、「自然な思考」に戻すべく施術される。ヒトラーの肖像を前にしたヒロインが恍惚となる結末はマンガだが、有望なオスに欲情できない話題に「自然な思考」が絡めてしまうのである。