『すずめの戸締まり』(2022)

幼女が常世をさまよう冒頭は「コスモナウト」の援用だろう。コスモナウトの冒頭では、タカキ君が明里の幻とマヨイガでデートする様子が活写された。幼いすずめもマヨイガ酷似の曠野に迷い込んでいる。顔を上げるとその先には明里っぽい人影がある。わたしはギャッとなった。


『すずめの戸締まり』がコスモナウトの冒頭を引用するのは正しい。明里に未練があるタカキ君と同じように、すずめも母に呪縛されている。コスモナウトのマヨイガを踏まえると、すずめを呪縛するのは常世の明里らしき人影だと誤解してしまう。すずめの人生の課題を提示しながら誤誘導が仕込まれている。


ギャッとなった件は他にもある。御茶ノ水の地下ですずめに拒否られ萎れてしまう猫である。自分が全く相手にされていなかった。それどころか、自分の好意に女は迷惑すらしていた。これほど切実な恋の苦悶を新海作品で見られたのは秒速以来だろう。萎れ方もたまらない。覇気を失った男を酸鼻に戯画化している。猫の事情はあくまで傍流に留められ、猫が三角関係の踏み台を志願しても、すずめの気の遣り様は猫の思慕に比例しない。しかし、猫に受け手の注意が向かないよう女を素っ気なくさせてしまえば、かえって片思いの辛みが露呈してしまう。あの猫こそ作者が描きたいもの、作者自身に他ならないからだ。ダイジンとは『彼女と彼女の猫』の猫の最新版である。


猫に比べれば、劇場長編二作のキャラクターたちと同様にすずめの恋心は内実を伴わない。自分がイケメンの代わりに要石になると言わなければ、恋慕のでかさがわからない。言葉で説明されないと切実さが伝わらない。この不手際は何か。『猫』の「誰か助けて……」、『ほしのこえ』の「なつかしいものがたくさんある」、そして明里を魔性化していった雪の両毛線。これらの手管は何処へ行ったのか。


コスモナウトを援用した冒頭以外にも、モチーフの借用を見て取るのは容易である。秒速と『宇宙よりも遠い場所』(2018)の関係は前に言及した*1。タカキもシラセも未練を絶つ方法を模索している。ふたりには相手の意志を確認する手段がない。しかたなく彼らは行き場のないメールを送り続けている。タカキ君の送ったメールは虚空に消えるばかりだったが、『よりもい』はこのアイデアを発展させる。母に送り続けたメールを最後は自分へ再帰させ、母の死を確証させる。


再帰」と「母からの解放」を今度は『すずめ』が援用する。しかし、前半の一時間、すずめは事件の対処療法に終始して根源的な課題を提示できないでいる。対してシラセは母の死亡を確認せずには前進できないと自覚していて、その目的に向かい最初から行動している。あるいは行動が母への未練の切実さを伝えてくれる。『すずめ』の前半は劇中で言及されるように単なる巻き込まれであり、事件は彼女の潜在的な悩みとリンクせず、活劇は没入感をともなわないアトラクションの域を出ない。


AIR』(2000)と比べてもいい。日南から愛媛に至るロケーションとその海辺の町で女子高生がフォークロア男と遭遇する絵面はそのままだろう。あそこでフォークロア男に声をかける観鈴ちんには切実な理由があった。すずめは「イケメンだから」である。


『すずめ』は二部構成である。前半は捨て石の長い序盤であり、中盤でイケメンがやはり『AIR』の往人のごとく降板して初めて、対処療法にすぎなかったすずめの旅路が目的を持つ。個人の事情がマクロの状況に組み込まれ活性化する。母は津波に流された。すずめの未練を切実にするために利用されるのは、意味のない死を迎えた人間の不憫さであった。


秒速のタカキのようにすずめには母の死を確認する術はない。したがって、未練から解放される手段に組み換えが生じる。母の死を改めて実感するのではなく、津波による遭難死をどのように意味づけ受け入れるのか。受容されるべき母の死ではなく不条理の死である。


『シン・仮面ライダー』は通り魔の体裁であるが、やはり震災映画と見てよい*2。男たちは肉親の意味のない喪失に苦しんでいる。そこでもマクロの状況とミクロの個人的な事情が相互を参照する。災害に遭う意味のなさが自閉スペクトラムとして生まれる理由のなさと互換し、遭難死の不条理への対応が我が事となる。


不条理を戦うべき対象と見なす『シン・仮面ライダー』のアプローチはSFらしい工学志向である。戦いを挑むことでその不条理には戦うべき価値が付与される。


実存主義者ならば泰然としてろと言うだろう。災難に遭っても泰然とすることで人は意味なき宇宙に意味をもたらせる。自然に流されてしまえば動物にとどまってしまう。人にしかできないことをやらねば人に生まれた意味がない。物質的身体は自然の一部だから災害に抗せない。しかし災厄を目前にして動じない自由を行使し得たとき、人は人である意味を獲得するだろう。


『すずめ』のアプローチは実存主義の理屈に準じている。災難に際して長期的には泰然となれたと追認が行われ課題解消とされる。この理屈が腑に落ちるかどうかは人の好みに拠るだろうから、ここでは問わない。問題は「再帰」にある。


送ったメールを自分に再帰させる『よりもい』のアイデアを『すずめ』は幼少の自分と再会させる形で援用する。すずめは幼女に実存主義を説き幼女は得心する。すずめも自分は最初から乗り越えていたと追認し安堵する。最初から解決されているからそもそも課題は存在せず、前半は対処療法をやるしかなかったのである。故郷の戻る理由もそのままではないのだが、イケメンのサルベージと混線させてなし崩しに未練の課題を再起動させる。すべてはイケメンが悪い。


では単なる迷惑な話なのか。イケメンとさえ出会わなければ丸く収まっていたのか。そうではない。幼女の課題が解決するにはすずめがイケメンと遭遇して過去に戻り、幼女を説き伏せる必要がある。だが、ループの規定・宿命性に目が行ってしまうと、愈々すずめから主体性が奪われる。すべては決まっているから事は追認に過ぎなくなり、何をやってもアトラクションになる。宿命を八百長にしない何かを『すずめ』は欠けている。それは何か。


『秘密の森の、その向こう』(2021)はヒロインが幼少期の母と出会う話だ*3。母は家を出て行方をくらます。少女は幼女の母と出会い親友になる。幼少の母が遠くに去り、ヒロインが家に帰ると母が戻っている。少女は成長したあの少女と再会する。母は懐かしい親友と再会する。母はずっと待っていたのだ。


プピポー! [Blu-ray]押切蓮介は『プピポー!』(2013)で、オカルトに始終苛まれる霊感体質のヒロインを扱った。ヒロインは霊感体質のために流産する。ヒロインの水子は過去に戻り幼少のヒロインと出会い、彼女の危急を救い、最後は身を犠牲にしてヒロインの霊感体質を改善させる。ヒロインはまた水子と出会うべく将来の懐妊を決意する。


ループを変えられない設定で用いるのなら、再会の好ましさでオチをつけるのは定石である。だからこそ『すずめ』は再帰するのだが、幼少の自分との再会は再会にならない。幼少の自分とは会ったことがない。結果としてループがマッチポンプに見えてしまう。手前のヘマで起こった騒動は最初から解決していたのである。再会すべきはかつての自分ではない。目前の少女は鏡に過ぎない。本当に出会うべきなのは少女の瞳に映っているであろう自分自身なのだ。