実存開明

哲学 (中公クラシックス)どうも私には今の私が本当の私だとは思われない。私が私自身に至っていない気がする。しかし、なぜ私は私自身になりたがるのか。どうやったらそれになれるのか。そもそも私自身とは何か。


本当の私である私自身を目指す運動は、スコラ学者を煩わせた神学論争を再奏してしまう。選択の際し私が私の本質に基づいて決定を下すのなら、私はかく選ばざるを得なくなる。私は私自身を越えて違ったように意欲ができない。私は自由を失ってしまう。


私自身は達成され完成された状態にある。これ以上変わりようがない必然であるために、私自身は時の観念を持たず、深い安らぎに憩っている。一切が必然だと知り後悔と負い目から免れている。しかい、私自身に達していない今の私には必然がいかにも不自由で不快に思われる。


植物と動物にあっては必然と自由が対立しない。何の抵抗も受けずに成長し種の本質を体現した植物をわれわれは自由に育ったといって憚らない。これを人自身に当てはめると、自然の盲目的な再生産に駆り立てられる心地がして業腹である。これは何なのか。


中世の神は時間を越えている。予定されたイベントを神は同時に把握している。時の観念に捕らわれた人間はこれらのイベントを逐次的に捕捉するしかない。イベントは時間の内に現れては消えていく。


私とは、時制を持つ宇宙において時間によって分節化され切片となった私自身である。私自身は時によって構造化されたこの宇宙では存在できず、やむなく私として現象している。


私自身にはこれは事故に見える。時を越えた宇宙の彼岸で安らいでいた私自身は何の因果かこの地上に投げ込まれ、時によって刻まれバラバラとなり、私自身の有様を忘れてしまった。ただ、私がかつて私自身であった確信だけは残っている。


私はこの宇宙にあって偶然と法則に隷属し、この時間を不安と動揺の中で送っている。私は私自身に戻らねばならない。そのために、私が誰であるか知らねばならない。


中世の神学者は神を結果主義者と考え、必然の宇宙に自由の概念を導入した。イベントは予定されている。しかし、所与のイベントを人がどう解釈しどう反応するか。これは人の勝手であるとした。


そこにおいて神は結果主義を動機主義の手段として用いている。イベントの意義を人に決めさせ、この宇宙に自由をもたらそうとする。私自身がこの宇宙に投げ込まれたのは事故ではない。私自身は必然の宇宙に自由をもたらすために、この宇宙に私として現象している。


所与性のない自由はあり得ない。質量の抵抗のない真空を鳥が飛べないように、所与性がなければ私は私自身を実現できない。私はイベントに遭遇し私の反応を知ることで、はじめて私の意思するものを経験する。時制は私から意思を抽出する手段である。時制の下にある人は一切を同時にこなせない。たとえ必然だとしても、選択肢を仮構しなければ意思は観測されない。選択肢によって意思や意欲の概念が生じる。


カルヴィニストにとって人生は神の意思を知るためのツールであった。人生の顛末に神の予定が現れると考えたのだったが、彼らは必然の予定に人間の裁量を割り込ませた。人を神の予定に至らしめ神の意思を確認させるのはあくまで人為である。動物的自然に流されてしまえば神の予定を確認できないまま終わってしまう。この顛末が予定されたものだったのか確証を得ないまま宇宙から去ってしまう。必然であるから予定通りに決まっているが、人の方に確証がなければ予定は認識されない。必然に対し能動的に向き合わなければ私自身が発生せず、私自身を観測できないのである。


私は私の端緒に責任がない。私の両親をそれとして選び決めたのは私ではない。それでもなお私には自由がある。所与のものをあたかも意欲されたもののごとく受けとり、所与性を自分に引き受ける自由がある。私は意義と態度を決める自由を行使して、私の本質の施行を認可する。私自身の切片と出会い回収して、私自身を復元していく。私自身から見れば、自由の行使を通じて、私自身は時間の中に広がっていく。

私の視野は色とりどりの輝き出る砂塵に覆われている。完全に見えないわけではないが、はっきりもしない。あらゆる色と形が渦巻き、風景全体が生きているようである。それぞれの事物には明瞭な形がない。ただ、運動を顧みることによってのみ、事物は自らの限界にとどまるように促され、事物ははじめてそれ自身であるかのように見える。