できることしかできない:ヘーゲルの場合

精神現象学 正義の具体的な内容を問われても、正義としか言いようがない。正義はひとつしかないからだ。現実は多くの事情からなっている。多様な現実に呼応して多様な道徳のふるまいが生じる。道徳が分岐すれば義務の対立が生じかねない。何か行動を起こせばある義務が侵害される。そもそも正義はひとつしかないはずだ。現実に対応して分裂するとすれば矛盾である。正義の単一性が具象に脅かされる。
 正義は単一でありながら様々な具象に即応する。その際、正義は自身を忘却する。事態の要請に従い具体化して行動となった段階で、正義は正義だった思い出を失う。現実に呼ばわれるたびに、正義は真理を忘れもう一度はじめから運動をおこなう。正義は忘却を繰り返す運動である。解消することで絶えずおのれを生み出していく。そうするより方法がない。多様な現実は無限に近しい選択肢を呈示する。すべての事情を知り、考慮してさまざまな義務を事前に想定するのはむつかしい。それでも行動は起こすべきだから個人が決定をくださなければならない。今ここで、即応する以外にない。
 成長は本来の自分に還る過程である。答えは最初から存在する。正義はひとつしかない必然だ。必然性の中身は先行する状況が教えてくれる。大切なのは正義を一般的に知ることではなく、状況を具体的に知ることである。構文のとれないセンテンスに質より量でアプローチするように。構文が判然となるまで機械的に読み返すように。反復はセンテンスをありのあままに受け取る手続きである。ある単語の役割に対する予断が解釈を妨害している。機械的な読みが予断を克服する。状況をありのままに知る以外に答えがない。正義とは状況を知る技術にほかならぬ。


 ひとつしかない純粋な正義はどんな内容とも等距離にあって、どんな内容とも折り合いがつく。正義という一般的な受け皿にはどんな内容でも投げいれることができる。抽象的な正義は内容を欠いている。それだけとしては無限で形式的な確信にすぎない。自らに具体的な形を与えるよう正義は要請する。正義の抽象的な受け皿に具体的な状況を投げ入れ、空虚を克服せねばならぬ。
 潜在的なものは、現実となったとき正体があきらかになる。だから、個人は行為によってみずからを実現しないかぎり、自分がなにものかを知ることができない。行為が完了するまでは行為の目的を決定することができないように思える。はじまりがどうの、手段がどうの、おわりがどうの、と思いめぐらすことなく、動きださねばならない。
 個人は行動することで正義に立ち会い、正義の束縛を知ることでむしろおのれの解放を手に入れる。一般的な正義は無規定ゆえにどこまでも人を拘束する。正義が具体的な義務と規定されたとき、個人は無限から解放されるのだ。義務は自由の制限ではない。不自由を制限するのである。