文脈から浮いたトロッコ問題が感情をあおる手段におちている。犠牲者が子どもではなく老人だと知って安堵した自分に篤郎は動揺した。功利主義に拒絶感がなければ彼の安堵は正当に見えるから、その動揺がわかりづらい。転轍機を動すはめになった人のプレッシャーは理解できるが、暴走するトロッコに直面した人が抱きがちな怒りとはそもそも何なのか。糾弾の矛先は悪魔的選択を設定した出題者の倫理観に向かい、その選択を強いる状況を作った元凶が腹立たしい。しかしこの憤りは逃避の一種ではないか。転轍機を動かして”正しい”選択ができないのは性格の弱さである。それに向き合いたくない。『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(2023)のトロッコ問題を思い返そう。父は他人の子を救うために命を落とし、実子は母子家庭の貧困に打ちのめされ父を恨む。父の利他的行為が徒労に終わるのかどうか。それは自分の人生如何にかかっているのであり、彼女は当事者になったプレッシャーにいらだっていたのだった。
犯罪の動機には飛躍がある。男を犯罪に駆り立てた元凶ははっきりしている。カウンセラーがカウンセリーの秘密を文春に売ったのがいけないのであり、カウンセリングルームや文春の社屋に爆弾をしかければ済む話なのだが、恨みはうっすらとした社会不信に放散して、都内一円に爆弾をしかける大ごとになってしまう。リブート新幹線大爆破とおなじ構図である。アレは森達也を爆殺すれば終わってしまう話なのである。悪を特定すれば不遇に耐えられなかった自分の弱さが露見すると考えるのだ。
社会はいくら爆弾をしかけても壊れない。社会は個々人の心の中にあり、壊すべきものはそこにある。作中の社会・人間不信はある意味で悪の起源を言い当てている。元凶を社会悪に求める物語のセンスはコンプライアンスに欠ける警察関係者を量産する。トロッコ問題の背徳感は法曹関係者ならば緊急避難の一言で正当化されるだろうから、篤郎の憤怒はプロらしくない。社会は爆弾では壊れないが、篤郎が二朗の指を折りカウンセラーが相談者の秘密を漏らすだけで壊れるのである。
二朗の狙いはそれだったのか。篤郎から重篤な人権侵害を引き出して、アノミーから社会を防護する堤防に穴をあけるために、二朗は挑発したのか。指を折っておきながら篤郎が取り調べに関与し続ける中世警察の世界観が本当の悪のありかに気づいているとは思えない。
漠然とした社会不信が爆弾に走るのは個人が社会に及ぼす感化を実感したいからである。しかし実際には篤郎は指を折るだけで社会に甚大な影響を及ぼせる。それが個々人の心の中にある以上、個人と社会は直結している。個人主義は堅固な社会の裏返しなのだ。
現業者には容易に理解できるこの感覚にくみしないのは虚業のなせる業かと邪推したくなるが、虚構にはそれしかできないこともある。『爆弾』はまごうことなき伊藤沙莉のアイドル映画である。あのカラス声が聞こえるたびに胸が締めつけられる。『ちょっと思い出しただけ』(2022)のトラウマがよみがえるのである。
『爆弾』は『思い出した』の並行宇宙だ。タクシーを流しながら池松壮亮と丁々発止のかけ合いをやっていたサイリは、今回は警視庁に奉職しパトカーを流しながら全く同じ口調で先輩の坂東龍汰にタメ口をきく。池松は足のケガでダンサーのキャリアを断念し、坂東は爆弾で足を吹き飛ばされる。憤怒に駆られるままサイリは取調室に殴り込み、またしても中世警察活劇となる。襲われた二朗の方はサイリの激昂を誘った自分の感化力によがり射精に達する。私は二朗と一体化した。心中で「わかるぞぉぉぉぉぉ」と雄叫びがほとばしった。この変態加減にあきれたのか、サイリはクールダウンする。このあとがたまらない。サイリはホルスターに手をかけるのである。T・ジョイ SEIBU大泉、シアター2のE11座席で、最愛の女の憤怒を誘いその手にかかる悦楽に私は震えた。したがって、ラスト、メス顔(カワイイ!)で坂東の病室を訪れるサイリはまことにつらく、はなはだしい心痛を抱えて寒空の下、帰路についたのだが、キャバ嬢や芸者と疑似恋愛をやって嫉妬の苦しみによろこびのたうつ旦那衆のように、今やこのつらみがやめられない。
この物語の最大の飛躍は夏川結衣と二朗の出会いにある。二朗という怪物と知り合ってしまった偶然である。二朗の能力ならばいかようにも成功したと思われるから、たとえ他人の言説の借りものだったとしても、彼の語る社会帰責には無理がある。能力がありながら、あるいはそれだからこそ、二朗が世を棄てたのは何となくわかる。結衣に事実上拒まれて自棄になって事を起こす解釈は二朗らしくなく飛躍があるが、社会に感化を与えたい願望が二朗の中で変奏されたようにも見える。感化力に発情する癖がある二朗にとって爆弾は、集合的憎悪を一身に浴びて自分の感化力を賞味する玄人衆の遊びだったのだろう。