『ジャッジ!』 (2014)

業界に対する態度も‟日本スゴイ”の用い方も自嘲がベースにある。おたくの文物をあがめる非日本語話者らの態度はカリカチュアライズされ、おたくごときを聖化する程度の低い人々として彼らを侮蔑している。彼らが属し自分を虐げる業界を侮蔑したいからである。


広告際の審査は票の取引が横行している。妻夫木聡は公正の毀損に憤る。しかし業界を相対視する作者の自意識は妻夫木の憤りを冷却しかねない。河原乞食の営みに公正を求めるのはそもそも筋違いである。加えて、審査員長のクルーガーが合理的な理屈を持ち出す。作品の数は膨大であり内容は一様である。順位付けは困難なのだ。


物語の自意識はリアリズムとマンガをどのように配分するか当惑している。類型的人物たちは業界のディテールから浮いている。審査される作品はシリアスである。審査員は皆マンガである。


妻夫木の個人的な負い目も軟弱な地盤にある。彼は仕事のできない人物と設定されるが、電通に入れた時点で普通の人間ではない。広告際における挙動を見ても、語学力を含め無能の人ではない。


審査の不正も前述のような言い訳があり、筋に没入しようにも解像度の合わないボヤケにはぐらかされる。不正に対する妻夫木の口惜しさに信憑性を付与するには何かが必要だ。それがトヨタCM(2006年度ニューヨークフェスティバル金賞)である。工作によってこのCMは予選落ちする。妻夫木にはこれが許し難い。


物語の基調を成す自覚的な気分からトヨタCMを見れば妻夫木の入れ込みようは少々不可解である。海外CMと比べて質感は薄く内容も仮装大賞的で貧乏くさい。モチーフは通俗的な意味での物象化である。会社員のオッサンを車のパーツに擬する文明批評調であり、本作の自覚的な作風に似合う内容である。一見したところ、決して悪くはないが突出した作品とも思えない。ところが、である。動画が進み悪天候をものともせず24時間、人の安全を守るべく車の隅々で稼働するオッサンたちを眺めているうちに妙な気分になってくる。ヤシオリ作戦N700系爆弾に際した日本語話者のおののきに類する気分である。部品ひとつに大勢のオッサンたちの関りがある。機械文明の自嘲が日本という文明の詩にすり替わる。


日本という文明を相対化してきた自意識は、CMを経由して超ドメスティックな感傷にコミットした。これが不正によって落とされるのなら、文明否定に他ならない。相対化は口惜しさを担保してくれない。ドメスティックな気分の身を任せて初めて感情が実効化される。


では妻夫木の、正義を犯された憤りは幻なのか。公正の感覚は自文明への執着にすぎないのか。


トヨタCMの謳う文明はフランシス・フクヤマが称揚するような製造業文明と互換する。それは端的に言えば、分業を是とする倫理観である。妻夫木が殉じる、メリトクラシーを公正だとする価値体系は製造業文明の産物でもある。ここにおいてドメスティックな自惚れは普遍的価値観と混然一体となっている。ドメスティックな文明感覚は文明ゆえに遍く互換する。互換もまた自惚れでもあり、より大きな体系に包摂されるうれしさでもある。


もし妻夫木が才能ある人物とされたら、メリトクラシーへの信奉は信憑性を失っただろう。才能ある人物にはメリトクラシーの方が好ましく、信奉が正義の感覚なのか私利の産物か区別がつかない。能無しの自分には不利益にもかかわらずメリトクラシーを信奉できたとしたら、彼の行いと価値観は信頼できる。


これは信仰と呼ばれる事態であり、信仰は主義主張を越えて他人に信頼を伝えられる。リリー・フランキーや審査員長クルーガーの助力を引き出し、北川景子の義侠心を煽ったのは信仰である。


文明守護というマクロな課題と並走して、妻夫木は個人的な負い目に直面している。彼は失恋を引きずっている。元カノから贈られたぬいぐるみを捨てられない。票との交換にそれを求められたとき、妻夫木は取引を拒んでしまう。


北川景子ツンツンデレデレのわかりやすい女である。彼女の激情のもっともらしさを支えるのはラブコメの強度である。鈴木京香と事故的に絡む妻夫木を誤解して、その気がないのに気になってしまい、ツンツンを加速させるかわゆすぎる景子。自尊心の高い彼女は、京香の方に絡む妻夫木が許容できない。ラブコメの強度が逆流して信仰の信頼性を支え始める。これだけドキドキさせたのだから、男の信仰は本物のはずだ。マンガとリアリズムの間で揺れた叙法はラブコメに安息の地を得る。


恋に落ちた景子には男を元カノの呪縛から解き放つ動機が生じる。無理矢理にぬいぐるみと票を引き換えにする。これは失恋の呪縛から逃れる話だったのであり、ぬいぐるみがマクロとミクロの課題を結節したのだ。


ぬいぐるみがミクロの負い目を具象するとすれば、マクロたる製造業文明はクルーガーの纏うハルヒTシャツにおいて究極的に具現する。腰に手をかけ勝気に何事かを指弾するハルヒは、公正とメリトクラシーの体系を守護する女神である。相対化されたおたく文明は超ドメスティックな自惚れを経由して普遍に到達し、人類の自惚れとなった。