『ラーゲリより愛を込めて』(2022)

筋を引っぱっていくのは人の負い目である。人の性能の高さは彼から本源的な悩みを見失わせる。


高い性能にはそれに応じた語り口がある。二宮は超人だから悩みの捕捉を試みても徒労である。性能が発揮される場を設定した方が筋は活きる。本作の場合、部活動の組織化がこれに相当する。彼の能力が活性化されるべきと一応の自覚がある作者はラーゲリの文明化を進行させるのだが、あくまでメインは人の弱みの詮索にあり、筋は文明化の叙述からたびたび逸脱する。生得的に二宮に欠ける人生の負い目は他者の中に見出す他ない。松坂桃李は戦友を見捨てた怯懦に苛まれている。捕虜を手にかけた桐谷健太は人権侵害に抗命できなかった怯懦に苛まれている。超人二宮には抗命は容易く、営倉入りも辞さない。彼の完璧さは桐谷と松坂の負い目を引き立てる。


二宮は他者の負い目の触媒である。触媒だから内面に乏しく、そこをあえて彼の視点を個々の話題を貫く柱に据えてしまえば、つまみ食いのように筋は散乱する。ラーゲリが文明化すると生活の過酷さが緩和するのだが、緊張と緩和がランダムに前後見境なくやってくるために、何かが進展している感覚が得られない。さらに、桐谷の負い目が二宮に対抗する価値観として構成され、二宮の印象を損なってしまう。


桐谷は人権侵害の負い目を正当化したい。人間を捨てないと帰れないと松坂桃李には助言し、あくまで人たろうとする二宮の勇気にはプレッシャーを覚え、事あるごとに当たる。しかしこの対立は逆説的である。超人二宮よりも、負い目との付き合い方に悩む桐谷の方がよほど人間らしく、人を捨てていない。人を捨てきれないから負い目になるのだ。このふたりの価値観が抗争に入れば、桐谷に肩入れしたくなる。


美談調の筋は二宮の勝利を約束する。二宮の人権侵害を受けて松坂は初めて抗命する。もう誰もお前を卑怯だと呼ばない。桐谷は松坂を讃える。負い目は相互に参照し合い、ふたりは男を上げていく。桐谷には妻が空襲死した知らせが届く一方、二宮の妻は北川景子(かわゆい)である。二宮の価値観が勝てば勝つほど、彼は文芸的訴求力を失う。桐谷の絶望を救う手立てが二宮にあるはずがない。だとしたら、どのように価値観の溝は埋められるのか。


ここで突然コントになる。


二宮が死病に倒れる。余命わずかである。病床に臥す二宮の面貌に桐谷らはドン引いてしまう。やつれ具合が様になりすぎていて、コントの扮装と見紛うまかりなのである。二宮は骨格レベルで病人が似合い過ぎる。


この物語には定型的人間しか登場しない。叙述できる感情はわずかである。しかし病態が男から個性を剝奪するに及んで、定型詩は然るべき場所に至り輝きを得る。二宮が超人すぎて人間を感じさせないと指摘した。今や病によって機械的になった二宮は桐谷の価値観を結びつけてしまう。人間を捨てよと桐谷はいった。二宮は最初から人間を捨てていたのである。


ラーゲリでは文字が禁止される。二宮の遺書は人々によって分散して記憶される。桐谷は持ち帰ったのは妻へのねぎらいの言葉である。


「よくやった」


桐谷は二宮という他者の言葉を北川景子という他者に放ちながら、亡くなった妻へ呼びかけている。故人との疎通は不可能である。ゆえにアイロニーという別の不可能が生者と死者を架橋するのだ。