『流浪の月』(2022)

男運がつくづく悪いのか、それとも不幸を招く力に取り付かれたのか。広瀬すずは未成熟な男、横浜流星に捕まってしまったのだが、松坂桃李に共感してしまうと広瀬は女難と化す。松坂の幸福を案じるのならそっとしておくのが妥当であり、カフェに入り浸るべきではない。松坂と多部未華子が付き合ってるとなれば、それこそ涙を湛えて身を引く案件なのになぜか声をかけてしまう。挙句に隣に越してくる。男の平穏な生活は破綻する。これでは女難である。あるいは不幸を希求する衝動なのか。いい解釈ではないが、横浜流星は不幸をもたらしたというより、広瀬の薄幸力に引き寄せられた犠牲者ではないか。


いずれにせよ、不幸な境遇にもかかわらず、広瀬のエゴは彼女を事態の被害者に押しとどめない。松坂の方も不思議な人で、このひとは広瀬の襲来を女難とは解さず、その真意は最後まで不明瞭である。あえていうなら、自然災害に対する諦念に近い。ズルズルと広瀬の引き起こす騒動に巻き込まれ生活を破綻させていく、といいつつ不思議と破綻しない。


多部未華子先生こそいい面の皮である。本作には人物造形に紋切りが過ぎるところがある。松坂の容貌は絵に描いたような文弱で、何だこの俺はと同族嫌悪的イヤさある。広瀬がアンティークのお店に入ると出てきた店主が柄本明という投げやりな配役。松坂は文弱の癖にモテまくる。多部未華子先生に猛烈に求められて、わが憎悪を煽る。しかし、先生のような女を惹いてしまう文弱の色気というものが存在するのか、と憎悪をしながらも鼻の下は勝手に伸びていく。邪念と薄幸が綱引きをして松坂の境遇を曖昧にする。


並行する広瀬と流星の件は社会的逸脱を競う怪獣大決戦の様相を呈してくる。流星は低落レースの勝者となり、作中でもっとも壊れてしまう。この話でもっと救われるべきなのは流星なのだ。


松坂の登場する場面にはふたつの意味でイヤさがある。冒頭の広瀬と流星のマンションやバイト先のファミレスから松坂のミニマム自室に場面が移ると安堵してしまう。映画の文法になったと。この安心感は大衆蔑視の裏返しに見える。柄本明の配役のように行政・司法・大衆がアナクロとまでは言えないものの表層的に挙動する嫌いがある。その戯画化には彼らに対する不審が底流にありながらも、筋が要請する固有の事情もありそうだ。広瀬と松坂が負った人生の十字架の重さと社会小説的なイヤさを混同させようとしている。制度的なイヤさを剥ぎ取ってしまえば彼らの人生には課題が大して残らない。


ところが流星だけは、社会小説とは独立して人生の課題が成立している。いかに成熟するかという人類永遠の課題である。広瀬に棄てられた流星は生活を破綻させる。広瀬は流星の荒廃に情を動かす。彼女は何も考えていない。不幸を自動的に求めるだけである。流星がそこで自傷するのは謎行動だが、そうでもしないと自分を恢復できないと彼は悟ったのだった。『悪人』(2010)の深津絵里と同類で、彼女は男をダメにしてしまう。拒まないといけない。


広瀬と松坂の顛末は男女が互いをダメにした七咲ENDである。それは現状維持の静寂でもあって、もともと課題がないのだから変化しようがない。課題のある流星だけが作中で成長できる資格があったのだった。