当事者性と感情の信憑性は代替する 原民喜『夏の花・心願の国』 関千枝子『広島第二県女二年西組』

夏の花・心願の国 (新潮文庫)
人の死に様を観察する美文が苦手である。大岡昇平を読むと、戦争をオカズにして自慰にふけるように見えてしまう。当事者に美文をしたためる余裕があるとは思えず、話が作り物に見える。



『夏の花・心願の国』は前半が妻の看病記になっていて、原民喜は詩人だから、現代詩調にネチネチと美文を綴る。それは、おのれの心理を追求するあまり、病の妻を労るというよりは、病の妻を持ってしまった自分の不幸を嘆じる話になっていて、ある意味でとても正直だ。



原民喜も『広島第二県女二年西組』も作者の課題は同じように見える。当事者性からの解離を解決する方法や表現を両者は追求している。究極的な当事者は、病身の妻や焼け死んだ級友たちであって、生き残った語り手ではない。



『心願の国』のラストで、原はいよいよテンパって轢死を望み、そこでようやく当事者であることの安らぎが訪れる。



原は死者を景観に託し、彼らから同胞の意識を享受するのだが、死者と自分を等価にしてゆく過程の中で、戦災で焼け死んだ人々と戦前に病死した妻を同列に扱えることが発見されると、あの美文にまみれたイヤらしい看病記が、遡行の形で、ガチだったと伝わる。看病記を捨て石にするのではなく戦災の文脈に回収する話術の構成が、やさしさを裏付けるのである。その際、当事者の感覚は、自裁することで自らを死者にすることにはなく、妻への感情の信憑性を表現し得たことで獲得されたと考える。





広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち (ちくま文庫)
『広島第二県女二年西組』は帰還兵ものの文脈から当事者感覚にアプローチしていて、たとえば『父親たちの星条旗』の後半と構成が似てくる。生き残ったという不条理な罪悪感に対して、生き残ったからこそ自分には情報があるという希少性の感覚が拮抗し、語り手を動機づけるようだ。





後は余談だが、『いしぶみ』の広島第二中の面々は新大橋近辺で罹災している。爆心地からおよそ500m。ここからだと投下されたリトルボーイがこちらに向かって来るドラム缶のように見えたらしく、「伏せろ」という声を聞いた者もある。



対して、第二県女の面々は市役所裏で罹災。こちらは1kmくらい。ラジオゾンデの落下傘を上空に見つけて彼女たちははしゃぐのだが、それから四半世紀経ってもなお、あれにリトルボーイが吊してあったと著者が誤解している記述がある。