秒速人間宣言 『秒速5センチメートル』

明里を無意識の偽善者と解すべきなのか。「桜花抄」の明里は「タカキ君なら大丈夫」と別れ際に請け負う。ところが、「秒速5センチメートル」ではこれが根拠のない安請負だったことが明らかになる。てめえのせいでタカキ君はおかしくなってしまったのだ。



秒速5センチメートル」は決してタカキ君の内面に閉塞した話ではなく、わずかなカットが明里の主観にも寄り添っている。キャラの神格化にはその内面の閉鎖が基本になるから、一見したところ、明里を聖化する意味において、「秒速」は徹底されていない。



ただ、内面へのアプローチが試みられながらも、タカキ君=シンカイの描くその明里には『(500)日のサマー』を思わせるような拒絶感がある。けっきょくサマーがわからないように、タカキ君には、岩舟駅の一晩を距離感のある微笑を伴って回想する明里がわからない。



この不可解さにはすでに悪意が含まれると思う。明里を半ば意図のわからぬ怪物とするからだ。しかし一方で、タカキ君=シンカイには、明里への悪意を暴露されたくない気持ちがある。悪意があるとすれば、明里に恋い焦がれた自分をも否定することになりかねない。



明里を他人の男に嫁がせる自虐にはふたつの意味があるのだろう。あれはタカキ君=シンカイの痛キモチイ傷心を煽るための屈折した自虐であると同時に、恋の不可解さに対する憤りと、明里に対する恨み節でもあり、むしろよこしまな悪意の暴露を怖れるのなら、傷心にウットリする自己愛への没入は偽装となる。自分がよがるために明里を他人の女にしたのであって、決して明里を悪女扱いするためではない。そのように誘導したいのである。



「コスモナウト」のどうしようもない頽廃に比べて、「秒速」には病的でいながらも、不思議な明るさをともなうような開放感がある。それは、自分の悪意と格闘するシンカイの中に、われわれと同じものを見ているからだろう。