そして想いが残った 『秒速5センチメートル』


この物語が到達する結論には、悲惨なようでいてどこか明朗なところがある。ラストカットを構成する視座が客観的で、それが救いになっている。それまでの物語はタカキ君か花苗の視点によって担われてきた。ところがタカキ君と明理が立ち去り今や無人となった踏切の全景に至ると、物語の視点は劇中の人物から離れ、語り手のそれと同化する。わたしたちは誰もいなくなった踏切に否応なく語り手の存在を意識させられてしまう。この異常な物語が実のところ作者の監視を受けていて、傷心したタカキ君のナルシシズムと作者の間には距離がある。ラストカットの客観性がかかる感覚を受け手にもたらすことで、ナルシシズムによって閉塞寸前だった物語が解放される。


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失われた半身を恋求めるような、宿命としての恋愛観がある。その否定を本作の目的だと解すると、物語にはどうしても超えればならぬ課題が生じてくる*1。タカキ君を恋の呪縛から解放することが明理の心情を理解することとトレードオフになってしまうのである。タカキ君は明理に拒絶されねばならないが、ただ拒絶しては明理が非情な女になってしまう。タカキ君を拒絶しつつも明理の心理に接近せねばならない。あるいはタカキ君を拒絶するからこそ理解できる明理の心情を設定せねばならない。そこで用意されたのがタカキ君の心象風景といってもいい踏切であった。


わたしは踏切の場面を構成する動線と間のとり方がすきだ。上り電車がINして画面を横断する。その対向から下り電車が交差する。タカキ君が振り返る。電車が去る。明理が立ち去り無人となった空間がタカキ君の前に広がる。その空間に彼女の決意を知ることで、わたしたちはようやく明理の心理に到達する。タカキ君は明理の意思表示に唖然とするばかりだ。その時の彼は、終わってしまったという喪失感とやっと終わったという解放感とそれらの感情の混乱を客観視しようとする自己憐憫がミックスした、典型的な失恋をした男の顔をしていて、映画のナルシシズは極限に至る。この後に来るのが問題のラストカットなのである。明理が立ち去り、そしてタカキ君が立ち去ってしまうと、踏切は全くの無人となる。ところが視座は踏切に残置される。


この状況は『春の日は過ぎゆく』のラストカットを連想させる*2。男は失恋の痛手に酔っている。物語は自閉してしまったように見える。しかし男の後背には、まるで彼の自閉活動を監視するかのように一本の樹木がそびえ立ち客観性の担保となっている。『秒速』でこの樹木に相当するのがあの踏切なのだ。


十数年に及ぶあまりにも病的なタカキ君の妄念は無駄であった。明理の拒絶を受けて今やすべてが失われてしまった。しかし本当に失われたのか。


「タカキくん、来年も一緒に桜を見えるといいね」



恋の呪縛から解放された場所が踏切ならば、幼少のタカキ君が呪いにかけられた場所もまた踏切である。そこから彼は明理を追い始め、やはり踏切で明理に追いつくことで彼は解放される。タカキ君の息の長い恋の全工程を見守ったのは踏切だった*3


あの病的なタカキ君も、“地球ではない惑星上”で夢想され続けた明理も、もうどこにもいない。すべてが終わり無人となった踏切にはただ想いだけが残っている。あのタカキ君と明理は無人の踏切という空間に表象されることで永遠となったのだ。

*1:「煉獄を経て」を参照。

*2:「いつも見ている」を参照。

*3:見守るという感覚については「報いの技術」「「現実」と「虚構」を越えて」も参照。