告別の旅 『秒速5センチメートル』

 秒速には『トト・ザ・ヒーロー』の影響が認められると指摘した。その際、篠原美香との破局の後に新海誠をアレを見たとなると相当効くものがあろうと空想したが、先日、久しぶりに『ほしのこえ』を見返したらトトから引用したと思われるモチーフがすでに登場していた。目前を通過する列車の向こうにヒロインが見え隠れる。列車が去ると姿が消えている。これがすでに『ほしのこえ』に登場してる。秒速の踏切は再引用して発展させたのものだった。影響があったとすれば、『ほしのこえ』の時点で見ていたのだ。
 再引用という点では、怪作『星を追う子ども』も同様で、これは秒速の「桜花抄」からの引用だと解せる。『子ども』はさよならを言うための旅であったが、「桜花抄」でも明里にさようならを言うためにタカキが短い旅をする。
 ところが『子ども』に比べるとずっとアイロニカルで、これがなかなか手ごわいのである。
 明里もタカキもそれぞれ手紙を認めている。内容はいずれも別れを匂わせている。しかし「桜花抄」本編では手紙の内容を詳らかにしない。タカキが別れを告げに栃木に向かったなどと受け手にははっきりとわからないようにされる。むしろウキウキであろうとわれわれは推測してしまう。したがって、別れるつもりでいるタカキの翳りを受け手は理解できなくなり、タカキの感情の昂ぶりが何とも大げさに見えてしまう。その最たるものが「どうか家に帰っていてくれ」である。
 なぜ「待っていてくれ」ではなく「帰れ」なのか。彼は明里に未練が残ることを恐れるのである。未練が残ってしまったら自分は壊れると正確に認識していたのである。「帰ってくれ」は解放してくれとの叫びだったのだ。
 一方で語り手はタカキを壊すことを意図していて、彼の告別の手紙を吹き飛ばしてしまう。未練を固着させるのである。しかも明里とのキスは童貞タカキの未練をブッ飛ばしてしまう。
 しかし明里は気持ちを変えなかったのだった。手紙を渡せなかったにも関わらず彼女は事実上告別に成功している。少なくとも自分は告別を行えたつもりでいる。
 「タカキ君ならたいじょうぶ」
 告別の旅だったと知らなくとも、このセリフの他人事のような響きには違和感が生じるだろう。もうこの時点で明里の心は離れていた。しかしキスで舞い上がっているタカキ少年にもわれわれにもそれを察するのはむつかしい。違和感を覚えつつも、明里も同様だろうと推測する。ここでタカキ少年とともにわれわれも明里に呪縛されたのだった。
 わたしは『やがて君になる』が放映していた時、よく『コスモナウト』を思い出した。両作ともサイコパスの放つ抗しがたい色気に捕まってしまった女の混乱に言及したのだった。だがタカキ青年としてもやはり明里というサイコに捕縛されている。一見関連のない「桜花抄」と「コスモナウト」であるが、主客を変えながらもモチーフは一貫していたのだ。

 懸想の対象を自然に掟に従ってわれわれは聖化する。やがて現実の女と聖化された女は別物であると知る。聖化された女は幻であり、自分の空想の産物であった。ところが自分の創作物だからこそ厄介なのである。
 90年代の半ばに庵○秀明はみやむーに愛慕した。そこでみやむーは分岐する。聖化されたみやむーと実際のみやむーである。
 現実のみやむーは克服可能である。しかし聖化されたみやむーからは逃れられない。それは自分自身であるから。
 しかしこの幻に宿主が突き動かされた結果、地上が改変されたとしたらもはや幻とは言えなくなる。聖化されたみやむーは地上に自らの痕跡を刻み付けるために宿主に作用を及ぼし続けるのである。