好きが届く奇跡の場所 『君の名は。』


その男にとってあの女はどれほど希少な存在なのか。あるいはその女はあの男のどこに惹かれたのか。劇中にあって恋愛感情を誘発して然るべき個人の属性は、たとえば長澤まさみに関していえば記号的といえるほど露骨に設定されている。クレーマーをあしらう長澤を見て、わたしたちは彼女にたやすく好意を抱くことができる。ところが肝心の主人公ふたりにはかかる属性が見受けられない。あまりにも何もないから、このふたりの間に恋愛という状況が生じることを語り手が忌諱しているようにすら見える。恋愛感情にこだわらないこの姿勢はシナリオによい効果を与えていない。女を救いたい男の切実さが伝わりにくい。事がただの人命救助になりかねない。それだったら彼である必然性がない。


恋愛感情の未成立は視点配分の緩やかさに負うところが大きい。物語はふたりの視点を往来し、両者の感情をモニターし続ける。これでは恋愛に切実さが生じない。恋は相手の意図が見えそうで見えない場所で醸成されるからだ。『秒速』の「桜花抄」はタカキ君の視点に固執している。逆に二幕目の「コスモナウト」では彼の視点は締め出された。最終幕ではようやくヒロインの視点に物語は到達する。しかしその内面には空虚が広がるばかりだった*1。物語はヒロインの内面の隠ぺいを全うすることで彼女を聖化し、タカキ君の恋愛感情を煽るだけ煽ったのだった。


君の名は。』が主人公ふたりの内面を開放的にしたのは、それとは別の何かを隠したい意図があるからだった。両者の視点に等しく言及が及ぶことで、このふたりが別の時空を生きていることを隠ぺいすることができる。しかし同時に、受け手に対する感情喚起についてトレードオフが生じてしまう。前述のとおり、ふたりの感情が並行してモニターされるのなら切実さの構成が困難になる。相手の意図が見えてしまえばゲーム的状況にはなり難い。17歳の三葉が上京する場面では例外的に瀧くんの内面が排除され切実さが実現されている。だがそれはやはり例外なのであって、それこそ御神体ゾーンでの邂逅に至るまで両者の気持ちは受け手に向かって放流され続ける。ふたりが別々の時空にあるという意外性と切実さが、両者の感情がモニターされることで損なわれる切実さに相殺されるのである。


新海誠とは何か。それは性欲の権化である。彼の表現活動は射精そのものだ。『秒速』で花苗に告白されると、彼のスペルマは後背で打ち上げられ上昇するH2Aロケットに仮託された。『言の葉』ではなざーに告白されると、もはや彼の男根の象徴といっていいドコモタワーの尖塔に虹がかかる形で、放出されるスペルマが表現された。しかし今作では、たとえばテッシー部屋のティッシュがせいぜい微苦笑を誘う程度で、性の不穏さは見当たらない。純愛への異常執着も影をひそめている。たしかに商業的配慮は理解できる。その成功も賀すべきだ。しかし俺たちの、いや俺だけの新海誠がもはや永遠に失われてしまった寂しさは否むべくもなく、わたしはとしまえんのスクリーン5をボーバクとして眺めていたのである。ところが、である。過去作とは比較にならない太く逞しいものを、わたしたちは間もなく目の当たりにするのだ。


常時監視され言及されたふたりの視点は、両者が時空を共にしていると受け手に思わせるための誤誘導である。しかしそれを誤誘導だと思わせてしまうこと自体が、受け手の目を更なる別の事から逸らすべく仕組まれた誘導だったのだ。ふたりの感情は常に観察できる状態にある。このことでわたしたちは、このふたりには観測不能な内面があたかもあり得ないように誤解してしまう。ところが観測できないものは観測可能なもので覆い隠されていた。観測できなかったもの。それは男の「好きだ」という感情である。これが露呈することで男には観察不能な内面の活動があったのかという驚きが生まれ、かかる驚きにより、わたしたちが欲してやまなかった感情の切実さと信憑性に物語はとつぜん到達する。この男は本当に好きだったのだとわたしたちは否応なく実感させられるのだ。物語の大半を覆う切実感のなさが最後に到達する切実さの踏み台になる点では本作は一発芸であり、最後の爆発のために前戯を続けた『言の葉』の構造に近い。また観察可能なもので観察不能な内面を覆うことにより感情の信ぴょう性を担保する逆説的な手法は、ヒロインの内面に言及することでかえって彼女の感情をわからなくした『秒速』のそれを思わせる。


求愛の切実さに呼応するかのように、その射精の美しさと規模は比類なきものだ。上空から降り注ぐ飛散したスペルマが家々を焼き地殻に大穴を穿つ。これほど力強い射精がかつてあっただろうか。まさにオナ禁明けの大爆発である。糸守町の消滅について本作は伏線を明瞭に張らないというまずいやり方をした。かつて村が大火で焼けたとごく迂遠に伏線を設定することで受け手との勝負を回避していて、消滅の事実は単線的に判明するばかりである。しかし町の消滅は本当に隠すべきイベントではなかったのだ。本当に隠したいもの、したがってあらかじめ堂々と提示することで伏線を張って勝負をかけたもの、それは今回の射精が彗星に仮託されていたことである。瀧くんの「好きだ」によって、あの彗星が一瞬のうちに再解釈され、わたしたちの目前で天文学的規模のスペルマへと変貌し地上を蹂躙する。わたしは泣いた。笑った。何も失われてはいない。新海誠そのものだ。俺の、俺だけの新海誠だ。


対称性に至らない恋がある。男が女をどれほど希少だと見なしても、男に対する女の感情はニュートラルである。かかる際、わたしたちは感情の根源的な伝達不能性を思い知らされる。求愛の対象にわたしたちはおのれの愛の証を立てることができないのである。わたしたちは恋愛の挫折を幾度か経て、愛の信ぴょう性そのものを信じなくなる。恋愛を交尾機会の探索過程として客観視できるようになり、生物として自然な振る舞いができるようになる。新海誠は違う。彼が語るのは人という不自然な存在であり続けること、あるいはかつてそうあり続けた事の絶望と勇気を祝福する物語だ。愛の信ぴょう性を性欲で表現する以外に術を持たない、誰よりも人間を愛するこの男は、ならば持てる限りの性欲でスペルマを深宇宙の彼方から発射するのである。8光年先からからメールを飛ばしたミカコのように「好きだ」が届く奇跡のような瞬間を信じながら。