Chekhov, A. (1887). Expensive Lessons

The Duel and Other Stories: Large Print

 学位論文のリサーチのために仏語を習得することになった男は家庭教師の求人を出す。やってきたのは若いフランス娘であった。男は舞い上がるのだが、受け手であるわたしの顔は歪む。また千年一日のごとく美人に男が翻弄される物語が始まるのだ。と、それはそうなのだが、チェーホフらしいというか、展開は少しイレギュラーで、最初は美人の威信を崩しにかかってくる。
 翌晩から授業が始まる。
 部屋に入ってきた女は前置きなしに「仏語には26文字あって、最初はAで」とやりだす。面食らった男はいう。自分は比較言語学者で古典語に通じている。いきなり読解から始めたい。そこで仏書を開いて男はあれこれ文意を質問するのだが、女の答えは要領を得ず男を混乱させるばかりである。女には教育がなかったのだ。
 この娘は自分には役に立たない。男は彼女を首にしようとする。ところが、女は続けさせてくれと懇願する。彼女は貧窮している。
 話の成り行きは男である受け手にとっては悪い気のしないものだろう。しかしこれはこれでストレスの基となる。『スワン家のほうへ』のような、美人の威信に負けないか否か、あるいは美人を希求する生物としての衝動を抑えられるかどうかというスリルが始まってしまう。そして男は美人の威信に屈してしまう。役に立たないとわかっていながらも授業は続けられ、恋心はいよいよ募ってくる。男は告白してしまう。女は拒絶する。男は後悔するが、女は相変わらずやってきて、役に立たない授業を続ける。いつまでたっても仏語は解らない。男は諦念する。
 男の視点で見れば、話は挑発と鎮痛を往来している。威信に屈してしまった。しかし女の負の属性で屈辱は緩和され、女への拒絶感は薄らぎ求心力は温存される。美女は美貌を利用し男は自然の仕組みがわかっていながらも顔面が弛緩してしまう。挑発と鎮痛を往来するうちに客観視できるようになった男は皆ひさんであると詠嘆に至る。
 本作にあって客観視は悲酸の増感に用いられているが、ロバート・ライトによれば、それは知った方がよいということになる。自然にとっての幸福と人間にとってのそれは必ずしも一致しない。そして抗うためには、自分たちが何に拘束されているか知らねばならない。


 岡田○里が監督をやる。端的に口惜しい。その劇場に閑古鳥が鳴いた。端的にうれしい。その口惜しいことやうれしいことが今はただ享しい。