『恋は雨上がりのように』

 何たる破廉恥。何たる邪念の迸りか。こう思わされた時点で敗北なのである。不自然には罠があり、むしろ語り手は受け手がそう思うよう誘導している。しかし、これは条件反射しても仕方がない代物ではないか。
 徐々にオッサンの魅力が開示されていく語り口ではなく、過去は省略されていきなり小松菜奈がオッサンに懸想している段階から始まるから、余計に反自然でまるで状況に正当性がない。小松が求愛行動を行うごとにあり得ないと激昂を誘われる。だが、怒りとともに安堵も否めない。俺はこれを冷静に見ていられる。小松菜奈がオッサンのワイシャツをクンカする様を蔑みで以て見ていられる。俺はもう騙されないのだ。
 小松の負っている課題の性質も信憑性のない事態に手を貸している。彼女は怪我で陸上が出来なくなっている。しかしその負傷は可逆性のものである。大泉洋は四十半ばで小説家志望である。これは致命傷である。小松の課題は当人にとっては地獄かもしれないが、大泉の課題と比べてしまえば問題にならない。
 かかる比較になったところで、あえて不自然を冒してきた語り手の真意が見えてくる。大泉の課題の片務的な重さは語り手にも認識されている。小松の話のように見えるがそうではなく、彼女は踏み台となって大泉の課題をわれわれに観察させるのである。
 小松菜奈の課題が月並みに解決されるとすれば、再びペンを執りはじめる大泉という回答も、それはおそらく自然に適っているがゆえに、月並みな印象は否めない。ただ、それまでの激昂で思考停止している分、容易に刷り込まれてしまう。前半の不自然の意味が理解されてくる。
 大泉に拒まれた小松は再び走りはじめる、邪念の残滓のもたらす何か勿体ない感じに甘く苛まれつつも、この帰結に一応の満足を覚える。
 こうしてまた騙されたのである。予断は醸成されていたのである。大泉の課題と真摯に取り組むのは目的ではなく、これすら踏み台であって、ついに物語の究極的な目論見が襲いかかるのである。
 ふたりは土手で再会する。小松は大泉に何事かを発露せんとする。ここでおかしなことがおこる。彼女は何か伝えようとしている。しかし禁則事項のように口は開かない。小松はそれを発声しようともがき、凄まじい顔芸を織りなす。自然の法則が歪められようとしているのだ。あの冒頭の邪念に物語が急速に立ち返ろうとしている。素直クールに設定された小松は、大泉への求愛に際して恥じらいを見せることはなかった。ところが、今、大泉に告白を試みようとする彼女はついに恥じらいに達したのだ。
 何たる邪念。何たる破廉恥。しかし長い邪念の濾過工程を経て拒絶感は消え去っている。
 顔一杯に侵食する邪念のニヤケを覚えながらわたしは知った。俺は騙されたかったのだ。心の底から小松菜奈にワイシャツをクンカされたかったのだ。わたしは誰かに愛されたかったのだ。