ジョン・スコルジー 『レッドスーツ』

レッドスーツ (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 冒頭から始まる劇中劇はつらい。あえて表現の水準を下げるのが劇中劇の作法である。通俗的な偶然が頻発して実に面白くない。
 『ミッドナイトクロス』や『カメ止め』冒頭の耐え難さを想起したい。冒頭から始まるのはそれが劇中劇と知ってほしくないからだ。劇中劇でない振りをしながら、表現の水準は劇中劇のままでありつづける。これがつらい。やがて訪れるであろう、出来の悪い劇中劇だったという発見は、つらい分だけ多大な解放感をもたらすはずだが、つらい時間を経験したという不快の事実は変わることがない。
 『レッド・スーツ』もこの類の劇中劇で構成されている。ところが、このつらさは受け手だけでなく劇中劇内の人物にも共有されている。作中の人物は如何にも出来の悪いジャンル物で展開されるような通俗の偶然に見舞われ、自分たちが出来の悪いドラマの登場人物だと気づく。しかもモブキャラだから不条理な死が差し迫っている。出来の悪さに苛立ちを覚えていた受け手にはキャラクターの気分が共有できる。キャラクターが虚構を脱せねばならぬ動機も十分である。ただ作劇の課題としては、これだけではまだ足りない。劇中劇を脱するだけでは十分ではなく、脱することで導かれる感傷も必要だ。
 『ミッドナイトクロス』は現実の悲酸な素材を物語の素材として再帰させた。劇中劇は表現が低水準なまま、あるいはだからこそ、作品の意味合いが変わってしまった。カメ止めは、現場に情熱があれば出来は問われないという、まことにつらい結論だった。
 『レッドスーツ』は虚構だと判明した時点で、次なる課題の伏線がもたらされる。元神学生である主人公はこう問われる。この宇宙の神は三流脚本家である。それを知ったうえでなぜ信仰を棄てずにいられるのかと。一方で、モブの苦悶を知った三流作家にも課題が出てくる。作家は誰も殺せなくなりスランプに陥る。彼は同業者にアドバイスを求める。同業者曰く。殺せないことがスランプの原因ではない。それはまともなシナリオを書けない言い訳である。必然性のある事態であるならば、モブは不快にしてもまだ自分の死を受けて止められるのではないか。これが話の最後の課題である。必然性のある事態とは。それが好ましいとは何か。
 劇中劇に妻を殺された男が出てくる。妻が殺されたのはモブだからだが、男にとってはモブではないから彼は何年もどん底にいる。しかも妻とその惨死は出来の悪いライターによる空想の産物だったのだ。
 主人公男が現実へ乗り込む際、妻を亡くした男は主人公に手紙とありし日の妻を収めたホームビデオを託す。妻を演じた女優に宛てたものだ。男にとって亡き妻と女優は別人である。それでもなお男は妻を演じた女優の存在に慰みを得ようとする。手紙にこう綴られる。別人ではあるが、わたしの妻だった女性は確実に君に由来していると。妻はいないが、君がいることが慰めである。
 この件は失恋した人間の心理と似ている。人は懸想の相手をこれでもかと聖化するが、終わってしまえばその聖化された人間は空想の産物であって、どこにもいなかったと気づかされる。しかし全くの空想でもない。われわれはあのとき、自分に眠る善良な部分と出会っていたのだ。
 手紙を読み終えた女優は浜辺を歩く。1人の男が彼女を見つめている。男は劇中で女優の夫を演じた俳優で、しかもその三流劇を創作したライター当人である。
 男はこんなことをいう。
 「なかなかの偶然だな」