『今度は愛妻家』(2010)

人間の正当化の力を思い知らされるのである。薬師丸が今後家事はやらぬと宣言する。ところが、すでに部屋は雑然としていて違和感を覚えたのだ。が、薬師丸が旅行に出ていた設定に促され、部屋の散らかりを合理化してしまった。帰宅してまた旅に出る彼女に不審を覚えながらも。


水川あさみがシャワー中に夫婦漫才をやる件にしてもそうだ。激しく応酬にもかかわらず出てきた水川には気づいた素振りがない。違和感を覚えるも、マンガ演出だとすぐに合理化した。


挙句に暗室の場面である。現像した写真にはことごとく薬師丸の姿がない。いい加減に気づけよと思うが、トヨエツの動揺を示す場面だと合理化するのである。撮ってるつもりで撮れてなかったと。


伏線以外にも偉さがある。


薬師丸がアレだと発覚して初めてリリカルが生じるのではない。オカルトやファンタジーに依存せずにすでにリリカルが生じている。むしろ、かかるリリカルが生じた直後に彼女がアレだと判明する。


本作には克服せねばならぬ瑕疵がある。これはトヨエツの後悔の話である。トヨエツは妻を疎かにしてきた。離婚の話が出て男は後悔する。しかし、離縁に至るまで関係が冷え切ったのなら、男は今更何を後悔をするのか。


薬師丸がナニしたので悔恨が生じるならばわからんでもないが、虫の良い話にもなりかねない。薬師丸がアレだと感づく前にトヨエツは後悔して、かかる悔いを受け手に納得させねばならぬ。


ひとつには濱田岳と水川のパートが効いていると思う。トヨエツと薬師丸が破局に進む一方で、濱田は童貞を捨てる。トヨエツは感化を免れまい。


アレが発覚するタイミングにも付加価値がある。


同年製作の『パーマネント野ばら』で菅野美穂がナニであったと判別するのは終盤である。ナニの判別自体がオチである。本作ではナニの判明をオチとしない。発覚のタイミングは中盤に過ぎない。賭金を釣り上げたとこの時点で思わされた。アレの発覚をオチとしないのなら、何を以て話を落とすか。


トヨエツは解放されたい。妻を蔑ろにした後悔からどうやったら解放されるのか。これはアレの発覚よりも難度のはるかに高い課題だ。


翌年公開の『監督失格』では、平野勝之林由美香から解放されたつもりになっていた。ところが、オチではむしろ呪縛されたい自分を見出すのであった。発覚を重ねることで解放問題を迂回したのである。


本作も解放の課題については歯切れが悪い。土壇場になっても石橋蓮司がアレだと判明して事実展開への依存が止まらず、いよいよ収拾がつかなくなる。石橋のネタは不幸自慢に使われてしまい、このドタバタの中で何となくトヨエツが納得してしまう。


すでにタイトルに答えが出ているのだ。トヨエツには、冷淡な自分に尽くそうとする薬師丸が今となっては哀れでならない。今から尽くし返そうにも薬師丸はアレでやりようがない。できるとすれば、善の捌け口を別に求めるしかない。


濱田&水川パートがまたしても活きてくる。恋愛に不遇な人が人の恋路を目の当たりにしたとき馬に蹴られたくなるものだが、トヨエツは薬師丸への優しい感傷を濱田に向けられ得た。『男はつらいよ 幸福の青い鳥』(1986)と同じ手法に帰着しており、善の広汎な布置に自分を発見せよと勧めるのである。