エフタライチャー・アティル『潜入 モサド・エージェント』

潜入 モサド・エージェント (ハヤカワ文庫NV)オッサンにせよヒロインにせよ、移入の難しい人々である。オッサンは頭の薄いメタボのハンドラーで、20も歳の違うの新人エージェントに惚れてしまう。オッサンもバカではない。脈がないのはわかってる。わかっていながらも自分に対する好意の兆候を探しては悶々としてしまう。モンテーニュ曰く、恋にかかりずってはいけない。肉体に吐け口を求めるべきだ。


問われているのは、50間際になっても恋愛感情に対応できないオッサンの未熟である。オッサンはオスとしての無力に苛まれている。管理職になり損なった彼は、いまだ現場にいる自分を自嘲する。


ステファンというモサドの”清算人”が登場する。普段はキブツの農場で家畜を見ている男である。ヒロインはステファンの新妻役で暗殺作戦に従事する。ホテルにチェックインするとヒロインは気まずくなる。ステファンは「二人でベッドに寝て、できるだけ楽しんで、眠るだけさ」とオス高い発言をする。ヒロインが拒絶するとこんなことを言い出す。


「そうしたければ、そうするがいいさ。これは大人同士の合意による、単なるセックスだ。恋愛ではない。始まりもなければ終わりもないし、ただそれだけだ。そうしたほうがいいし、緊張もほぐれる。だが、俺はきみのしたいようにしよう。きみの隣に寝て、二人とも眠れずにずっと起きていることになる。ただ、きみが俺に触れることにすれば、何もかも丸く収まる」


キャーである。ヒロインは隣に寝ながら、ステファンの吐息を聞き、体温を感じ、体臭を嗅ぐうちに我慢できなくなってしまう。


オッサン、ヒロイン両者が好きになれない受け手にとっては溜飲を下げる場面だ。ステファンと対比されることで、オッサンの無能という不快な現象が糾弾される。


オッサンに肩を持てば、ヒロインはどうしても不快な人物となってしまう。ヒロインはオッサンの好意を察していて、フフンとオッサンの性欲につけ込むこと度々である。


最初のところ、作者は肢体と顔以外にヒロインの魅力を語らない。ヒロインの肢体に執着するオッサンの恋は性欲の副作用に過ぎなくなる。恋に落ちて女を聖化するオッサンには、どんなものでも有能さの兆候となるが、外見以外で好意を誘いうる属性がヒロインには乏しいために、少なくともわたしにはオッサンの執心がわからない。ヒロインは新人である。有能さの指標を示し難い立場にあるのだ。


オッサンと受け手の間には亀裂が生じかねない。オッサンの性欲はヒロインの肢体を仔細に渡って叙述するから、好きでもないこちらまでもヒロインに動じかねない。これがイヤだから、ヒロインがステファンのオス性に屈してしまう件は好ましい。


このあと、任地の中東某国でヒロインに恋人ができる。男は裕福なアラブ人でオッサンよりもはるかに性能の高いオスである。ステファンの件が再演されヒロインが相対化される。彼女が職業人として成長すると”好き”に根拠が与えられ、ヒロインへの嫌悪から解放される。


問題はオッサンである。あくまで折り合いをつけようとするから切ないのである。執着だけなら気持ち悪い。オッサンの執着が気持ち悪くなくなる合理的状況が必要だ。


ヒロインの恋人は現地政府関係者と付き合いがある。ヒロインは彼を自分の仕事に利用してしまう。彼女に危機が訪れると、厭々男を捨てて出国。今度はヒロインを男に執着させることで彼女の相対化が完成するとともに、オッサンの執着が機能的要件を得る。


ヒロインは自分を人間疎外に追い込んだ祖国を恨み始める。モサドは秘密を知りすぎるヒロインの裏切りを恐れる。オッサンはヒロインに翻意を促すべく、已むに已まれず告ってしまう。


君の名は。』をわたしは思い出した。好きが機能的要件を得たために、執着に信ぴょう性が生じたのである。