もしゆかな声であれば 『her/世界でひとつの彼女』

離婚をした男は復縁を望んでいる。あるいは離婚に踏み切れないでいる。いかなる状況であれば男にかかる未練が残るのだろうか。互いに憎悪があれば未練は残らない。あくまで男が捨てられた状況が必要である。


不肖・宮嶋 史上最低の作戦 (文春文庫PLUS)
黒髪・別れたる妻に送る手紙 (講談社文芸文庫)
近松秋江が捨てられたのは甲斐性がないからだった。夫が家計を支えないから妻は逃げてしまう。宮嶋茂樹は妻に病気をうつしてしまった。彼はこれを悔やみ続けるのだが、当人が別の場所で語っているように、これだけが原因でもない。宮嶋はフリーになった当初、妻のヒモ状態になっている。


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彼らの行状に対してホアキンの未練には明快さがない。ともかく未練があるのだから妻に逃げられたと考えられる。当人の資質に問題があったと思われる。定石であれば、かかる負の資質に起因する課題が作中で浮き上がってきて、それを解決する話になるだろう。ところがそうではない。ホアキンの経済力には問題が見当たらない。彼はタワマン暮らしである。離別の原因は抽象的に扱われるだけで、未練が残る別れ方に納得ある説明がない。それが具体的に解らず実感として受け手に伝わらねば、作品への移入は著しく阻害されるだろう。『インセプション』が妻の自決を説明できなかったように。


ホアキンがスカヨハOSに引っかかったことを考えれば、彼の孤立が俎上に載ったようにも見える。しかし作中のホアキンは全く孤立していない。女性関係に不自由がない。スカヨハOSに引っかかったのはあくまで事故なのであり、引っかかる造形的必然性に欠けている。



事故なら事故で語り様はあったはずだ。わたしたちの価値観からすれば、ギャルゲへの没入は反社会的事象である。それはたとえば『イヴの時間』が意識的に扱った問題で、ハウスロイドに恋をするのは反社会的事象だから、事態は色々な意味でうれし恥ずかしくなってしまう。


本作にはこれもない。皆がギャルゲに没入してしまうから、それは恥でも何でもない。ホアキンは「OSの恋人ができた」と高らかに宣言して、わたしたちの腹筋を挑発する。しかし、劇中ではさすがにやや留保はあるものの、この発言はとりあえず自然に受け取られ笑いが成立しない。


エビコレ+ アマガミ特典なし - PSVita
水月~迷心~
ホアキンの没入の様態そのものを観察すれば、男が駄目になるおもしろさがないこともない。『アマガミ』の七咲的な、あるいは『水月』の雪さん的な。だが、かかるギャルゲ的消費にかんしても深刻な障害がある。肝心のスカヨハOSにまるで魅力がない。


本作にはルートが2つあるために、主人公男とプレイヤーの心情が分離するお馴染みの現象が見受けられる*1。スカヨハ・ルートとエイミー・ルートの分岐である。どっちを選ぶかというと、それはエイミーの方がまぶいに決まっているのだから、ホアキンはスカヨハにうつつをぬかすが、こちらとしては早くエイミールートに行きたくて仕方がない。スカヨハをめぐるホアキンの焦燥にまるで理解が届かない。


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泡鳴五部作 (上巻) (新潮文庫)
岩野泡鳴の『泡鳴五部作』は、彼が下宿人に手を付けた顛末を綴った連作である。泡鳴は女に病気をうつし、病身の彼女を置き去りにして樺太に渡るも事業は失敗。女に送金ができなくなる。女の病は治癒を見ず、耐えかねた彼女は北海道までやってきて、責任をとれと泡鳴に迫る。


こうなっては、酷い話だが、もはやうざいのである。読者にとっては、酷いことと理解しながらも、いかに女から逃れるか、その問題でしかなくなる。泡鳴には女から逃れるという気持ちもあるが未練もある。わたしたちにはこの未練が理解できないので、作中の人物と心理が分離する。


失われた時を求めて 2?第一篇「スワン家のほうへII」? (光文社古典新訳文庫)
似た感覚は『スワン家の方へ』にもある。オデットの不貞は読者には明らかである。しかしスワン当人は確信がもてず、だからこそ焦燥か増幅する。読者はオデットを憎悪するから、彼女に懸想するスワンの気持ちがわからない。ただ、この憎悪は語り手の誘導でもあって、オデットからスワンがようやく解放される際に生じる浄化のタメとなっている。