邪淫ドリーマー 『紙の月』


池松壮亮の行動が不可解なのである。家路を急ぐ宮沢りえを彼は追う。後に判明するように池松は宮沢に惚れているのだが、見ているこちらとしては、おそらく20も歳が上の萎びたおばさんにまさか惚れているとは思いもしないから、この地下鉄のホームで行われていることがまるでわからず、霧の中にいるようなもどかしさが感ぜられてしまう。


ふたりの恋愛の手順は通常とは逆行している。交際がはじまると池松は宮沢のヒモ化する。先行するのは恋愛であり、池松の借金苦を知った宮沢がそこで初めて横領を始めるのだ。もし彼に借金がなかったら、池松がヒモ化しないまま不倫は続いたであろう。このヒモ化の後発性がわたしには納得できない。


金銭の介在を排する、この愛の尤もらしさへのこだわりは何か。宮沢は作者の同一化の対象であるから、作者の邪念が自然を曲げたように見える。金で釣ったのであればよがれない。あくまで金の介在しない固有の特質で20下の若者を釣り上げねばならぬ。ただ、男日照りの願望を相対化し、それを超える普遍を導入しようとする試みも認められる。小林聡美の投入だ。その造形はマルサの板倉亮子の形態模写で、それだけでうれしいのだが、彼女の職業人の挙動とアナクロな銀行業務の綿密な描画によって初めて、ありえない男日照りの願望で解像を失った舞台に好ましい現実的な輪郭が与えられる。小林への共感が宮沢対小林という価値観の対立劇を設定するのだ。しかし、この路線の決着は曖昧で、その対決は本筋とは関係がないような通俗的貨幣論に落ち着いてしまったように見える。


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宮沢と小林の対話に中で、彼らの人物設定に関してひとつ唐突な設定が登場する。このふたりは徹夜したことがないという。宮沢は池松との不倫で初めて夜を明かす。朝帰りの途中、夜明けの月に指を重ねると月が消える。


池松の衝動的な恋慕がわからない。しまり屋だった宮沢は突如、借金云々を超えて横領をエスカレーションさせる。このふたりが豪遊する様はあまりにも不似合でグロテスクですらある。夢の中のように物事に理由がない。


宮沢が変わらないのも不可解だ。横領がエスカレーションするにつれて、彼女の挙動は否応なく職業人のそれとなる。ところが、彼女の表情はずっとおびえたままなのだ。おびえながら体だけは凶行に及ぶ。萎びたオバハンなのに声色はアニメ声である。雰囲気が変わったと大島優子は指摘する。わざわざそう説明せねばならぬほど演技の幅がなく、萎びたオバハンのままである。宮沢は何を怯えるのか。彼女は自分の体の動きを畏怖している。自分が自分のように感ぜられない。


徹夜が禁忌になるのは、事態が夢であるからだ。語り手からすれば、自分が他人の男日照りの願望であることを彼女に悟られてはならない。他人の夢であることを欺瞞するこのデコイは、究極的には、宮沢の謎衝動の根源を彼女の過去へ求めるような病の考古学として現れてくる。われわれはそこで中学生の宮沢と出会い、彼女の怪物性を目撃する。しかしそこにもまた、不可解がある。かかる怪物性とあの萎びたオバハンをつなげる手立てが見当たらない。ただ、彼女の怪物性は、冒頭の池松の不可解さへかすかな残照を投じるようでもある。大半は滅びつくされ、今となっては余光でしかない怪物性の残滓に彼は巻き込まれてしまった。


解らない事を解らないままにすることで格調を醸す方策がある。他方で、行動の不可解さを放置しては工夫がない。冒頭で池松は霧中に包まれたようにその狭間をさまよっている。