『あちらにいる鬼』(2022)

あくまでテロップで60年代と言い張るのである。車窓を過ぎていくのは現代感丸出しの電柱である。トヨエツは嘆じずにはいられない。曰く、自分の居場所がわからない。三池映画のような無国籍の町に放り込まれたのだから、彼のIDクライシスは尤もである。ID危機にもかかわらずそれがしっくりくるような矛盾した心地。これが本作のトヨエツである。




トヨエツがダメ中年のタイプキャストと化し、ネタ要員になり果てたのはいつごろからか。寺島しのぶが車に乗り込むと姿見えぬトヨエツの嘘くさい作り声が聞こえる。これだけで噴飯である。ほぼすべての登場場面でトヨエツは鬼畜で緩い色魔としてタイプキャストそのままに稼働する。堕胎させた愛人の見舞に妻の広末を差し向ける。この間に寺島をトランプ占いで口説きにかかる。福岡の宿泊先にまで押しかけ色魔の声で曰く

「抱きにキたんだ☆」

この欲情は不可解である。相手はオバハンである。不可解だから抜けた感じになっていよいよトヨエツらしくなる。熟女趣味が全編に渡り鬼畜を愛嬌に変え、この愛嬌こそ沼となる。トヨエツは風呂場でも濡れ場でも眼鏡を外さない。劇伴がどんなに重くなっても、この男は靴下を脱ぎ臭い足を揉み揉みし始め、昭和のオッサン仕草で笑いに持っていこうとする。出家した夜、寺島はこらえきれずトヨエツの泊まる宿坊の部屋を訪れてしまう。トヨエツは叫ぶ。

「こんなトコ来ちゃだめだ☆」

単に声が嘘くさいから喜声に聞こえるのか。本当に喜んでしまったのか。




産気づいた広末をうっちゃりイヴに寺島の仕事場で乳繰り合うトヨエツ。愛人が死ねばその妹と関係を持つ。寺島を二時間待たせた挙句に女連れで現れ、憤慨して自室に引きこもった寺島を鬼と評する。鬼はトヨエツの方だが、寺島には後ろめたさがある。

この話の半分は寺島の邪念で出来上がっている。熟女向けのハーレクインロマンスがトヨエツの蛮行と並走する。寺島の愛人は高良健吾であり、京都ではなぜか佐野岳が熟女趣味で寺島を抱く。トヨエツは寺島のハーレクインに巻き込まれたにすぎない。では、このふたりの鬼に挟撃される広末は被害者なのか。否、広末はラスボスである。トヨエツが最も恐れるのが広末その人である。

トヨエツは浮気を広末から隠そうと試みる際、いかにも彼らしい小物じみた振る舞いをしてしまう。言葉数が増え弁解がましくなってしまう。寺島宅を初訪問し自宅に戻ったトヨエツはまくしたてる。編集者に無理やり連れていかれた。よくあのつまらない男と出奔したものだ。角瓶しかなくて往生したよ。トヨエツの癖を熟知する広末はあらあらとなる。その目つきは幾分サディスティックである




得度式には渋るトヨエツを説き伏せ派遣し本妻の貫録を見せつけるとともに、トヨエツの貞操を試す。トヨエツは本当に駄目な人で、式が終わった晩に広末に弁解がましい電話をかけ、下心をもろバレにする。曰く、ビジネスホテルに宿をとった、これから酒飲んでラーメンでも食って寝る。電話に出る前、晩食中だった広末の前に鎮座する一升瓶もすごい。

トヨエツの下心に呼応して、翌日、広末は村上淳と連れ込み宿に向かう。ラスボスである広末は内面を持たない。彼女の視点は幾度も劇中に登場するが、夫の不品行に何を思うのか、広末は尻尾を出してくれない。連れ込み宿への車中でその心中を問われると、広末は消え入りそうなかすれたアニメ声で歌い出す。

あなたと私が夢の国 森の小さな教会で 結婚式を上げました

40代の広末にとってアニメ声はキャリアの重荷でしかないだろう。いま、その声がアニメ声にしかできない仕事をやっている。アニメ声が鴉声に変声高峰秀子のような貫禄に達している。




内面を欠いた広末は小説を書いても夫の名前を借りねば発表できない。他人の弁を借用せねば内面を訴えられない。妖精のように無内面の女が同じく自分を持たない男の自動性に振り回されている。役柄が広末の実人生と被り、その感傷が異様な尤もらしさを帯びる。

『あちらにいる鬼』は、同じ廣木隆一×荒井晴彦×寺島トリオの『ヴァイブレータ』(2003)の人間観を踏襲している。両作で寺島が出会うのは内面を欠いた自動的な男である。ラストの劇伴の使い方や淡い失恋の余韻もそのままだ。

ヴァイブレータ』の寺島は奇行で大森南朋の忍耐の限度を試す。大森はどんな奇行にもドン引かない。彼は内省がないために状況に自動的に対応するだけである。そんな大森を寺島は本能的だと評する。

トヨエツもそうだ。主催する小説のワークショップで弟子たちを前に社会派の熱弁を振るうかと思えば、次のカットでは宴会芸でストリップをやり、次の場面では弟子とセックスする。何も考えていない構成だが、トヨエツ当人が何も考えていないのでこうなる。厄介なことに、この自動性が時として徳に化けてしまう。

大森南朋の自動的な生には動物的な充足があり、その徳に寺島は感化を受ける。自分の無さに苦しむ寺島は欠落が徳となってしまう機序を大森に発見し救われる。

故郷の浜辺で出家の決意を寺島から聞かされたトヨエツは正解の対応をする。

「さういう方法もアル☆」

もし引き留めたら自分は激昂した、と寺島はメス顔でいう。トヨエツは正解を言おうとした訳ではない。単に浜辺の雰囲気にのまれ出てきた台詞に過ぎない。自動的だからこそ正解に至ってしまう徳の在り方は、『ヴァイブレータ』の寺島を救ったが、本作の寺島には地獄である。この徳の暴威から逃れるために寺島は出家に追い込まれたのだった。




トヨエツ・寺島・広末は三者三様の敗北を迎える。

村上淳を連れ込んだ広末だったが、女の貫録に村上は不能となってしまう。浮気未遂の帰り、得度式から戻ってきたトヨエツと鉢合わせになった広末は、夫の傷心を知り自らの失恋を知る。




歳月は流れ劇中時間が90年代に達すると、トヨエツの自動性は年貢の納め時を迎える。トヨエツの虚構性を物証的に裏付けていたのは、テロップで60年代と強弁された現代の景物であった。時代設定が現代に近づき、この出鱈目が解消されると、トヨエツの肉体は支えを失い死滅を迎える。

病院の廊下にトヨエツの譫妄の声が響き渡る。これは笑いだがもはや嘘くさくはない。臨終の際に寺島と広末に手を握られると恍惚として、この期に及んで笑いを取ってしまうトヨエツ。病院を後にした寺島はこの鬼畜のダメ振りを愛おしむうちに泣けてしかたなくなる。




今や鬼は匿名化して「あちらに」いる。鬼は事態を観測する匿名の第三者となり、この三者を苦しめる機制そのものになっている。