埼京線に雪が降る 「桜花抄」『秒速5センチメートル』

童貞的な形質にとって、女の好意の符丁は永遠の謎である。岩舟駅の待合室で、来られるかどうか定かではない男を、あの女は待ち続けていた。愛を誤信した男は、南の孤島で妄想を膨らませた挙句、廃人となってしまう。男を待ち続けたあの愛の強度とは何だったのか。語り手の自己愛の投影でしかない女には自律的な内面がない。女は、その天然ゆえの惰性で、永遠にわれわれをあの待合室で待ち続けるのだ。男に報復をするために。



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その女がどれほどかけがえないか、男がわかっているだけでは足りなくて、どんな点でかけがえがないのか、受け手にも実感が生じなければ話に乗れなくなるだろう。たとえば、『リクルート』のコリン・ファレルブリジット・モイナハン



コリンがブリジットに首っ丈なことは理解できる。しかし、なぜ首っ丈になったのか、これがよく伝わらない。語り手は、首っ丈をスリラーを醸す手段に過ぎないと割り切っていて、ただ男が発情する様を呈せばそれで充分だとしたのかもしれない。しかし、男と同様にわたしも女に好意を抱かねば、男とスリルを分かち得なくなってしまう。この女であれば、猛り狂うのは仕方がない。そのような説得がほしいのであり、それならば、どのような記号が人の好意を招くのか、という話題にもなる。レイバン越しにワーシントンへ送られる、ミシェル・ロドリゲスの牧人の眼差し*1。俊敏に伝声管から電話へ切り替えてくる、森ガールではありえないシータの機知*2。これらは『リクルート』が全尺を使っても伝えられなかったことである。


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明里がどんなに素晴らしい女だったか。おそらくこれを判らせてくれるのが、埼京線を遡上するタカキ君を見舞う降雪のイベントだろう。「桜花抄」冒頭でタカキ君は口角泡を飛ばす。この女にどれほど自分は参ってしまったかと。しかしその内実は、早漏じみたモンタージュのなかで女のいかにもな媚態の記号が切り取られるばかりで、男のいささか偏向的な情熱は伝わるものの、受け手が女に入れ込む余地はないように思う。



埼京線の降雪は、タカキ君の病める感性を利用して、受け手に認知的な罠を仕掛けてくる。それどころか、稚拙を装うアバンから何らかの誘導が始まっているようだ。語り手の作劇力と自意識の質が語り口を気色悪くするのではなく、敢えて受け手に気色悪い思いをしてほしい意図がある。タカキ君が、思い込みの激しい多血質の少年であることを知ってほしいのである。



タカキ君の多血質を認知することで、受け手は、明里とタカキ君の関係を否応なく客観視させられる。「互いに対する特別な思い」などタカキ君の一方的な思い込みであって、物証からすれば、これは単なる文通の関係でしかない。



降雪に阻まれた埼京線車内で、まるで終末を迎える人類のようにタカキ君は絶望し、われわれをドン引かせる。たかが文通相手に会いにゆくのに、どうしてこの男はこんな大げさな反応を示すのか。受け手はここで、タカキ君の病める気質を思い出し、彼の絶望を合理化する。こやつの情熱が焚き付けられるほど、逆に、男と女の関係が文通仲間に過ぎないことが浮き彫りになってくる。タカキ君の想いとは裏腹に、二人の関係から距離を置くよう語り手は受け手を誘導するのである。明里が待っているはずはないと思い込んでほしいからであり、また、待っているはずのないものが待っていた状況を作りたいからだ。これはホラーの作劇に近い。



岩舟駅の待合室で、われわれを待ち受けていたものとは何だったのか。われわれはあそこで女の魔性と出会っている。女の不可解な執拗さは、愛の実証ではなく、愛のバランスシートの破綻である。自己愛に閉じた男の観点から見れば、その魔性は、価値のないものへ気まぐれで愛を投資する残酷さである。あの場所において、われわれはようやくモテキ君を理解するのだ。タカキ君の人生を狂わせることになる女の魔性が実感として届いたのだ。わたしはそう思っている。



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ほしのこえ』を再見した。冒頭で、保健医シノハラの稚拙な萌え声が「セカイってコトバがある」と、少しでも自意識の残滓があればとうてい口に出せない台詞をささやく。たったこれだけである。たったこれだけで、新海は、これから生涯にわたって自分を苦しめるであろう女の魔性のすべてを表現している。新海の作劇力に疑問を呈す向きがある。とんでもないことだと思う。