仮文芸

現代邦画とSFの感想

自由 ~気合と根性の詩学~

道徳形而上学の基礎づけ行為の観測だけで徳の有無を判別するのはむつかしい。徳高い商人は不当な価格を吹っかけないが、競争の圧力があれば怜悧な商人でも誤魔化しはやらない。


制度によって徳の担保を試みるのが社会科学である。競争によって徳の有無にかかわらず公正な行為が期待できるのならば、常に競争の生じるような制度を設計すれば徳の王国に到達できるはずだ。


あくまで徳に基づく公正な振る舞いにこだわりたい動機主義者には、利己心に由来する公正な行為は制度による規制が外れてしまえば確実な作動が見込めなくなるために信用ならない。怜悧な商人の行動には一貫性がない。環境如何に左右される行動が動機主義者には我慢がならない。行動が自然によって攪乱されるのならその人は人間ではなく物件にすぎなくなる。慈善家の心が自身の悲痛によって曇ったとしても親切の出力が変わらないとすれば、そこで初めて道徳と呼ばれる現象が観測される。


自然に依存する限り制度は徳を普遍的に定義できない。どのような行為が幸福をもたらすか考えてみればいい。富は妬みと心配を招くかもしれない。長寿は長く続く悲惨にならないだろうか。全知でない限り自分を真に幸福にする何かを一つの原則に従って決定するのは不可能に見える。


怜悧な商人は行動を環境に依存した結果として一貫性を失い意志の欠いた物件に堕ちる。徳によって稼働する慈善家は自然がどんな攪乱をもたらそうとも出力は一定である。自然による外乱から独立した自律の能力が徳の定義である。この定義はいくつかの虚構を前提とする。


外乱に左右されない徳の形状は恒常的である。これが倒錯すれば、恒常的な形状に達しさえすれば徳は自動的に発見されるようになる。古代人はその形状を擬人化して本当の自分と呼び、近代人はそれを存在と呼び、本当ならぬかりそめの自分の方は現存在と名付けた。


ここで徳の前提となる別の虚構が出てくる。徳と称される恒常的な形状は人間の中に埋もれている。混沌と偶然の母体である自然には徳の恒常的な形状を収容できる余地はなく、それは人のうちに安らう他はない。現存在たる人間は自然の攪乱から存在を保護する容れ物であり、存在の牧人である。宋代のインテリには街を行き交う人々がみな聖人に見えた。自分が聖人とは思えないのは忘れているからである。自分の中に格納されたとされる徳に人はアクセスできないでいる。


神話は、今の私に転送される際に本当の自分は従前の記憶を失うと想定する。転生に先立ち、彼は自分で転送先を決定してあらまほしき人生に自分を送り込んでいる。今を生きる私にはその記憶がないために、なぜこの人生を本当の自分が選んだのか見当がつかない。忘れる必要があるのは徳の恒常性を自然の攪乱から隔てるためである。


外部の攪乱に感応して人から自律性を奪うのは意識である。宋代のインテリは意識によるカオスの仲介作用を予断と呼び、徳の発動を妨げる予断を潰す方法を模索した。


攪乱の元凶が意識ならば意識そのものを潰してしまえば攪乱は去り形状は恒常化するはずだ。だからこそ忘れるのである。自分たちの信仰が引き起こす社会変革を知っていれば下心が信仰を揺るがすためにプロテスタントは産業資本主義をもたらさなかっただろう。


動機主義者が想定する徳の形状はここでジレンマに陥る。私が本当の自分を感知するためには意識が必要であるが、意識は自然の攪乱を招き入れ本当の自分を潰してしまう。藤沢周平の鳥刺しは意識を失わなければ発動しない技だった。本当の自分を起動させるためには本当の自分を知ってはならないとすれば、人はそれを知らないまま終わってしまう。


近代人は自由と宿命を兼ね合わせる課題のうちにこのジレンマを捕捉した。自然の攪乱と対置されそこから自律する徳の形状を彼らは意志と呼んだ。意志の性質は徳が前提とする恒常性と相容れない。形状が変わらないのであれば形はひとつしかなく、選択の余地はなくなり自由が失われる。意志は選択によって表現される。選択は自由の前提である。


徳の自由のない形状を捕捉できるのは自由をおいて他にない。強制された徳には矛盾の響きがある。自由を行使した実感をもたらすために選択肢が擬制される。選択の前提にあるのは時間である。本来の徳は形状を一つしか持たないために時制の概念がない。徳がわざわざ人間に降下してくるのは自由がないと発動しないからであり、自由は時制がなければ生じない。


時制は物質を摩耗させる。人の寿命には限りがある。徳は容れ物たる人間を次々と乗り継いでいく。私は本当の自分の容れ物にすぎず本当の自分は一時的に私に滞留したのちに別の個体へと転生し、私は本当の自分を知らないまま終わってしまう。この不条理に救いはあるのか。


人生は終わりにならないと全容が見えてこない。人生の全容が見えたとすれば、それは私に転生する前に本当の自分が選択した人生と等しいはずである。


動機主義者の生活は断薬者のようにヨブ記的試練にさらされ続ける。少しでも自然に攪乱に動じてしまえば、今まで積み上げてきた徳は瓦解する。いま人倫に適う振る舞いを自分が実行し得ていても、将来の自分は老化や試練によって徳を全うできなくなるかもしれず、人生を終えるまで気の休まることがない。


死を十日前に控えたカントは衰弱にもかかわらず診察に訪れた医者を立ち上がって迎え、医師より先に座ろうとはしなかった。ふたりは感動していた。この期に及んでも自然に屈しない人間の力を目撃したのだ。カントは本当の自分とようやく対面を果たしたのである