『シン・仮面ライダー』 (2023)

用意周到な人がそう自称するのは用意周到ではない。万が一ドジったときの見栄えを考え、この手の人は自分に対する期待値を下げてくるのではないか。


コウモリオーグの件で用意周到の割にルリルリが役に立たないのはフェイントだが、後々、真正のドジを踏んでくる。『カリオストロ』で危急に際した銭形と機動隊員は食べかけのカップ麺を躊躇なく打ち捨てる。これが宮崎アニメである。襲われたルリルリは謎の野外食を大急ぎでかき込む。後ろのハチオーグ団に気づかない商店街の場面もコントの構図である。タコ部屋に押し込まれると声を上げてシャワーと着替えを求めクールキャラを前触れなく捨ててくる。当座の欲求が満たされると寂しくなり始め、本郷にラブコメを要求する。


タコ部屋はいい感じだ。ルリルリがシリアスな説明台詞に勤しむ後背で、洗濯ロープからコートが貧乏臭く垂れ下がっている。この手のコントの対比は冒頭から充満している。ルリルリが機敏に挙動する横で我関せず震えている本郷。ハチオーグが滅し悲嘆するルリルリにかける「大丈夫か」がひどい。棒である。ところが、ルリルリは奇人だから棒にも感応して「ムネを借りる」とデッレデレになる。


『シン・ウルトラマン』の棒台詞は演出家の不手際だが、本郷と一文字の棒には心がある。つまり作為がある。


シンウルのメインで唯ひとり棒にならなかった長澤まさみがサソリオーグとして警官隊に襲われると「何かしら」と棒で反応し、嬌声の断末魔で色気担当の気概を見せつける。ライダーの不要感もコントだ。


負けじとルリルリもカメレオンの件では真正のドジを踏む。用意周到なわたしが、とこの期に及んで自称にこだわる。ビデオメッセージでは一転して媚びに全振りする。音声のみを含め三度も撮ってしまう未練と執着。この人は泥縄を用意周到と取り違えている。


ルリルリの自覚なき天然とは逆に一文字の棒には割り切りへの自覚があり、そこに彼の徳がある。洗脳からやっつけ仕事で立ち直るのはあんまりだが、深刻なドラマとして受け取るにはマンガすぎる対森山未來戦に、彼の距離感ある視点がコントの余韻を伝えてくれる。


一文字の徳はコントとドラマの媒介である。本作は主人公交代型の話であり、最終的に問われるのは本郷でも森山でもなく、一文字の人生である。


本郷も森山も片親を通り魔に奪われている。森山は通り魔の不条理に、悲劇の意味のなさに憤るが、その感情には誤配がある。理由がないゆえに悲劇は自然災害に等しく、怒りを向ける対象としては適切ではない。彼らは怒れないことに憤っている。


洗脳が解けた一文字の立ち直りの速さはこの問題に対応している。彼の過去は一切省略される。涙の理由にも言及がない。彼が被ったと思われる悲劇に理由がないからである。不遇に理由がないから森山らの理由なき悲劇を引き受けるのである。では、本当の理由なき悲劇は何か。


角島大橋を疾駆する一文字は死者と対話を始める。画面に去来するのは溢れんばかりの不憫さだ。不器用に生きるしかなかった本郷の健気さが不憫である。怪人たちが不憫である。森山が不憫である。書店に赴けば鉄道軍事雑誌コーナの前にこの手の不憫さは容易に見出せる。ショッカーとは書泉グランデなのだ。


一文字は、感情のない庵野しゃべりそのままに本郷に呼びかける。ふたりでショッカーと戦おう。ここでいうショッカーとはみやむーである。自分を拒んできた世間である*1。究極的には、世間の憎悪を誘ってしまう、自分の呪わしい性質である。作者は同病相憐れむ。一文字を通して世間に負けるなと励ましをやる。


自閉スペクトラムには理由がない。塚本晋也市川実日子を番わせたらそうなるわな、というほかはない。家族劇になるのはもっともだ。理由にあえて執着するのなら家族の話に閉じてしまうのである。

*1:みやむーにはみやむーの苦しみがあるのだが本稿では扱わない。