『殺さない彼と死なない彼女』 (2019)

てよだわ言葉で観念的な恋愛論を交わすきゃぴ子と地味子を捕捉するのは望遠の狭い画角である。舞台調の芝居と台詞がリアリズムの叙体から浮き上がり、きゃぴ子の課題を空論に終始させる。木造二階建てアパートの扉を開けると彼女の自室がある。その作り込まれた内装とアパート外観の落差として叙体と内容のすれ違いが実体化している。実体の裏づけが観念を追いかけ、きゃぴ子のぼんやりとした不安を定義しようとする。これほどカワイイ自分が捨てられてしまう。なぜなのか。男にとってきゃぴ子はカワイイの他に取り得がない。美が人間を駄目にしている。


並行する八千代と撫子の観念恋愛も実体化の契機を得る。八千代は失恋を引きずっている。惚れた女の苦境は子どもの自分には手の余るものだった。きゃぴ子と八千代の世界はななの課題の補助線であり理念像である。ゆえに空論なのだ。


ななの自傷癖は男に見透かされている。打ち殺された蜂に自分を見て嘆じる自己劇化の激しい女である。蜂=女という最初の誤誘導がここに仕込まれるのだが、ともかく女の課題もやはり空論にとどまっている。男にはリスカがアピールにしか見えず、事実、女の奇癖は男の気を惹いてしまう。


汚らしいオッサンが憐憫を乞うたらそれこそ教室に乱入してきた蜂のように叩き落とされるのが関の山だろう。若いメスゆえに男に放っておかれず課題に直面しないななに対して、まずきゃぴ子の補助線が実効化する。


ぼんやりとしたリスカ願望とは違いテストの点は空想ではない。超人の男は運動も勉強もできる。進学は目前に迫っている。置いていくなと女は泣訴する。こういう足を引っ張る人はどこにでもいる。美が宿主をまたしてもスポイルしていたのだ。


ふたりの顛末はごく月並みに終わろうとする。男の励ましに感応して女はやる気を出す。この件は決して悪い気はしない。女と別れ帰路についた男は遭難し、各種の伏線が爆発する。蜂は女ではない。叩き潰されるのは男の方だった。


この誤誘導を隠匿するために、ホーガンSFのような時系列の錯視がきゃぴ子とななの世界の間に仕込まれている。並行して叙されてきたきゃぴ子とななの場面には時の共有がない。きゃぴ子たちにとってななたちは過去の人である。しかし共時の出来事と考える受け手には、きゃぴ子たちが話題にする事件がななたちに関わる事案とは思われない。このふたつの世界は理念と現実の違いにとどまらず、時間にも差があるのだった。


物語は男の視点で始まりななのそれで終わる。主人公途中降板の最中、男は端末を取り出し女の写真を眺める。不細工な寝顔。イカ焼きをほおばる変顔。


この場面が醸成する苦悶をわたしはよく知っている。初デエトのみさき先輩である。浩平に去られ、公園に取り残されたみさき先輩。盲目の彼女はこれから独力で帰路につかねばならないのだ。


八千代の補助線がかくして発動する。子どもゆえに女を救えなかった彼は、成長への強迫観念に苛まれている。男を失ったななは、単独で思春期の強制終了という人生の非常事態と対峙する。


女の変顔を眺めながら、死にいく男は不憫さのあまり父性愛を張り裂けんばかりにする。成熟の痛みをこのアホの娘は一人で乗り越えられるのか。


男は蜂となった。しかし、その蜂は冒頭ですでに死んだはずだった。時間のねじれがやはりある。冒頭で蜂を弔った女は予約的に未来の恋人を葬ったのである。しかし女はそれを知る由もない。もし知っていたら、それを弔うのは当たり前の営為だから、男の関心は誘わないだろう。知らないがゆえに、弔いには下心が入り込む余地がない。男が惹かれたのはそこである。


女は最後まで蜂である男を判別できない。今でも男が傍にいることを知らない彼女は、傍にいてくれと死者に向かって呼びかけをする。女の要請に呼応して、男は女の傍らを通り過ぎていく。女は足取りを早める。男に気づきそれを追うように見えるのだが、むしろ泰然としすぎていて、一寸、彼を無視して追い越してしまったようにも思われてしまう。望遠が遠近感を惑わせる。


女は気づかないのか。それとも確信なのか。事は無意識の制御に収斂する。もし八千代が自分の好きを受け入れたら恋は終わる。そう予感した撫子の観念恋愛のように、ななが蜂を男と知って葬れば男と出会うことはなかった。男が傍にいると知ってしまえば、彼は消えてしまうのである。