『せかいのおきく』(2023)

接写された人糞に柄杓がインサートされ粘着音を立てる。意図過剰のイヤらしいカットだが、人糞に対峙する池松の険しさは笑いである。これは池松の徳操を観測する話なのだ。


彼の徳は寛一郎を放っておかない。厠で二人は雨宿りする。黒木華もやって来て雨宿りを装う。男二人のために彼女は用を足せないでいる。焦らしプレイは男二人の関係に援用される。池松は寛一郎を勧誘する。 汚穢屋をバカにした手前、寛一郎は意固地に応じてしまう。池松のバディになってもツンツンを崩せない。彼を池松の徳に感染させるのはこぼれた人糞を素手ですくい取る職業人の挙措である。社会状況を身体に引き受けるとき池松の徳は発揮される。


舞台は『君たちはどう生きるか』のインコの国のような境遇にある。近世社会は限られた空間で人口を養うために単位収量を増やす方策を採ってきた。人糞を無駄にしない池松の職業倫理はその成果である。近世社会は物価高騰とともに終わろうとしている。武家屋敷の門前で値切りを強いられ暴行される池松。現場を目撃した黒木は憐憫を催され男の徳に感染する。この件は不穏だ。感染すれば三角関係になりかねない。案に相違した形で実際に三人の関係は不穏になる。感染はその場限りで寛一郎に対する黒木の好意は揺るがない。徳の感が向かった先は黒木ではなく寛一郎なのだ。池松と寛一郎は肉体関係に至る。


ラストで広角パースの森を歩く三人には『冒険者たち』の男女のような不安がある。寛一郎と黒木は結ばれた。池松と寛一郎は関係を維持している。寛一郎にとって池松との関係は友情の延長であり混乱はない。しかし男たちの関係を知った黒木は疎外感を覚えかねない。池松は黒木も排便すると執拗に言い立て寛一郎の不興を買う。池松は黒木に気があった。今や嫉妬の対象は寛一郎の気を惹いた黒木に変わったかもしれない。


三人を納める広角パース自体も不穏である。世界の球体感を語っているそれは時代劇の叙体から逸脱している。すべてがチグハグで錯誤的だ。池松も寛一郎佐藤浩市も現代人の価値観で思考する。持続可能性の文脈に汚穢屋の営みを位置づけるのは誤りではない。近世人は人口問題に対応するためにリサイクルをやる。しかし社会的循環に言及する池松の語彙はSDGs的で現代人の思考に汚染されている。発想が現代人だから発声も挙措も新劇調となり、カウンターバランスとして石橋蓮司はオーバーアクトを強いられ、ますます池松らを錯誤的に見せてしまう。


読書階級の佐藤浩市に至ってはなまじ語彙力があるから誤魔化しがきかない。彼は幕府と諸藩の集合体を「この国」と呼ぶ。この語彙ないし発想は近世人に見えない。中央集権的な行政が存在しなければ「この国」なる客観視は出てこないだろう。


社会は佐藤の錯誤に制裁を加え矯正しようとする。自力救済という行政不在の産物が彼を襲い、黒木から語彙を奪う。眞木蔵人が黒木をカウンセリングする。彼の言動には団子の話が混線し要領を得ない。カウンセリング自体が近代人の概念であり近世人の語彙では実行に苦しむばかりである。寛一郎が「世界」という語を黒木に向けて使用を試みる。語彙力のない彼にはそれを言葉で伝える術がない。やむなく彼はジェスチャーの頼り、場面はサイレントの叙体に切り替わる。


近世の限界が社会的にはインフレとして、人文的にはボキャ貧として実体化する。不穏な三角関係は疲労した近世の総称である。