認知の不協和は絶えず感知される。上総介が頼朝を武衛と呼ぶたびに不安を掻き立てられる。上総介は同輩のつもりで頼朝をそう呼んでいる。頼朝はリスペクトだと解しているが、上総介のタメ口と武衛の尊称には矛盾がある。頼朝の中でこの認知的不協和はどう合理化されているのか。頼朝の心理に言及はなく、武衛は上総介の愛嬌に過ぎなくなる。ただ、物理的に二人の危ういパワーバランスが変わることはない。武衛と発せられるたびにこの危うさが暗示されるから不穏になってしまう。武衛はユーモアと受け取って構わないのか。不安は脚本の誤算なのか。頼朝の内面に言及がないのは意図である。認知的不協和は回収されるべき伏線であり、頼朝は密かに違和感を抱き続けていたのだ。
認知の不協和は至る所にある。ありすぎるから、理詰めをやらない緩い世界観だと思わされ、伏線を見逃してしまう。
頼朝がわからない。助平のコミックリリーフをやる大泉頼朝が危機に際すると突如棟梁然とする。イベントによって人の性格が変わる類の話である。そう思わされるから、上総介を殺せと言い出したとき小四郎とともに仰天してしまう。本当に頼朝が理解不能な人物となりおおせた。脚本の瑕疵と解された二面性は意図であり、回収の予定された伏線だった。このひとは最初からサイコ野郎なのだ。性格を翻弄してきた事態はここに至って初めて性格に隷属したのである。
結末を知っていても、好ましい顛末ならば、筋の享受を決してスポイルはしない。作中で好人物が危機に陥る。受け手にはストレスになる。もし予め危機は克服されると知っているのなら、安心してストレスを愛でる好ましい矛盾が可能となる。しかし、既知の結末が悲劇だったとしたら。一転してそれは認知的不協和の不快となる。
騒動の後、頼朝に最大のリスペクトを送る上総介。体はうれしく反応するのだが、史劇だからこの後の酷い顛末は予め知れている。うれしくなるほど、うれしくなくなる不協和が発生する。
この話にはヴェスターラント的なところがある。オーベルシュタイン大江広元のセクシィヴォイスに乗せられて、頼朝が闇に落ち、小四郎は人間不信になる。が、真相はさらに最悪で、頼朝も大江も、それどころか小四郎すらオーベルだった。彼は自分の意識せざるオーベル性に気づくのである。
彼の無意識の不協和は以下のように具体化する。頼朝の闇を知った小四郎は平六のもとへ駆け込む。事を暴露して助力を請う。平六は冷静である。小四郎自身もオーベルに感染していると指摘する。本当のところ小四郎は上総介排除の合理性に気がついている。彼は止めてほしいのではなく、倫理を犯す責任の重さに耐えかね、その一端を担ってもらいたく、平六に打ち明けたのだった。