25年目のみさき先輩

男には自惚れがある。この女には視覚がない。ゆえに女がわたしの善性を見出す際、わたしの容姿は女の試みを阻害しないだろう。モテのかかる合理化には男の自惚れが前提となる。善性が自分に備わると男は確信している。が、自惚れはその起源を再帰構造の中に見失う。最初からわたしは自分の善に確信があったのか。視覚を欠いた女に見初められ、初めて善を確信したのか。


善でモテを合理化する方策には別の嘘がある。相手の容貌に左右されない女を男は聖化するようでいて、実のところ障碍者として格下に見ている。自分を越えるものにモテるならば、男にとってはリアリティがない。


男の傲岸な無意識にやがて男自身が報復される。女に視覚がない。これが男の優位性の源泉だった。ところが女には視覚がないゆえに男の善が見えてしまう。男の善が女に何事かの受容の営みをさせてしまう。女には見えるのだから、モテの根拠が崩れる。見えないからこそ見えてしまう矛盾を具体化するように、男は実体を失う。男の姿を見失った周囲は男に対する記憶すら失い始める。ただひとり、女だけは忘れない。見えないものしか見えないからだ。


女は男を待つ続ける。女には義務感がある。自分だけが覚えているのだ。自分だけが待てるのだ。しかし、戦場に焦がれる帰還兵の心理のように、希少性と義務の因果関係はすでに反転している。自分だけが覚えている。その希少性が男を待つ義務感へ女を駆り立てたはずだった。これが、男の自惚れがそうであったように逆転し、自分の希少性を確信するために女は男を待ち続ける。希少性中毒の帰還兵が戦場に戻り、自分が必要とされる状況を取り戻すように。



lain の放映は ONE の発売から2ヶ月後である。ONEでは男と女が分割して担ったモチーフが、lain では一個体に集約された。


玲音を自己犠牲に駆り立てたのは稀少性の感覚である。結果、玲音は実体を失い、周囲は女の記憶を失う。しかし辛うじて記憶に引っ掛かりを覚える個体もある。


われわれは、人類に忘却されても挫けない矜持を歩道橋の女に目撃する。それはあの先輩が男を待ち続けた矜持にほかならない。四半世紀経っても夕焼けはキレイだった。おそらく永遠に。