テッド・チャン『商人と錬金術師の門』

息吹ウロボロス物である。男は“歳月の門”をくぐり、未来の自分から財宝を盗む。男は財宝の力で意中の娘と結婚するも、娘は誘拐され盗んできた財産は身代金に消える。ふたりは一から財産を貯め直すのだった。過去の自分に盗ませるために。

ウロボロスではあるが、主題は『時尼に関する覚え書』とその翻案たる『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』と共通する。『時尼』は時間を遡行する女と付き合う男の話である。男は老いていく。女は若返りやがて幼児となる。女の視点に立てば最愛の男は子どもに還っていく。

女にはある種の倫理感を帰責できる。いまや幼児となった、かつて愛した男。この子の好意を勝ち取らねばならぬ。過去の自分にその愛を享受させるために。なぜこれが倫理的衝動になるのか。自分が散々享楽したから借りを返さねばならないのだ。

今回『時尼』を読み返してみた。1ページ目から催涙である。ジレンマが効いている。享楽が多ければ、それだけ義務感がいや増す。しかし、過去が楽しいほど今が悲痛になる。

『商人と錬金術師の門』はこの催涙に向かわない。遡及する投資の不条理をむしろ強調する。享楽の期間はごくわずかだ。結婚するや娘はすぐに誘拐されたのだった。その後、吝嗇の人生を辿る内に、ふたりは仲違いする。享楽期間の短さゆえに恩義の余地は乏しく倫理的衝動はない。身代金を払えない恐怖があるばかりで何とも格調が出ない。あくまで不条理であって悲痛ではないのである。不和になったとしても妻との生活は続く。これもスポイルの伏流となるだろう。

錬金術師』はオムニバスで、“歳月の門”をくぐり過去に向かった女が自分の夫となる男を訓致する話もある。これから出会う自分を好きになるよう仕向けるのである。これも時尼と同じモチーフだが、時尼がひとつの筋で投資の不条理と恋の訓致をやってるのに対して、『錬金術師』は別々の筋でそれをやるのだから筋の経済性は劣ってしまう。



きみがぼくを見つけた日 上巻 (ランダムハウス講談社文庫)原題の The Time Traveler's Wife が露骨なように、こちらはより『時尼』に筋の構造が近く、同様に催涙効果も狙っている。しかしうまくいってない。

時尼はシーケンシャルである。対して『きみがぼくを見つけた日』はランダムである。時尼では男が若返る。『きみぼく』では、愛する男がランダムに出現する。男は青年だったり中年だったり子どもであったりする。それがある期間、女と時間を共有して消えて、また現れる。托卵要素はなくもない。女が幼少であるならば訓致する義務が出てくる。が、不可逆ではなくランダムである。幼児の彼女と出会った男は、数日後には成人した女と再会してまた恋を続ける。女の視点に立てば、男が死んだあとに過去の若い男が現れる始末である。どこかの時点で、最後の邂逅はやってくるにしても、不可逆の悲痛は大分緩和されている。むしろ予測がつかないスリルに傾斜した感がある。