仮文芸

現代邦画とSFの感想

『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(2023)

父の死は福原遥に謎と苛立ちを遺した。命を引き換えにした父の利他的行為は人様の子を救ったが、母子家庭の貧困に打ちのめされ進学の気力を失ってしまった自分は父の行為に意味を見出せない。福原の課題は特攻隊員との交流を通じて拡大再生産され更なる精査を受ける。妻子や恋人を遺して死のうとする男たちが父同様に無責任に見える。


父を特攻隊員に重ねる構成は構造的なジレンマを抱えている。父の利他的行為に意味を見出せば、特攻の合理化になりかねない。福原にもジレンマがある。恋人を遺して死ねなくなり脱営を企てた男を福原は励ます。愛する人のために生きろという彼女は気づかぬうちにジレンマに陥っている。逃げ帰った男は女に対して従前通りの魅力を維持できるのだろうか。利他に走らず家族を捨てるべきではなかったと福原は父を非難する。溺れかかる子どもを見捨てた父は利他をやった父に比して娘に対する感化力を失うだろう。何よりもオスとしての自信を喪失し父としての機能を低下させかねない。


男が低位に滞留してかまわないとすれば、『ペンギンズ・メモリー 幸福物語』(1985)の閉塞した結末になってしまう。帰還兵の男はオス性の喪失に苛まれる。自分の成功が男の症状を悪化させると気づいた女は仕事を止めてしまう。自分が成功すれば男に対する好きの気持ちが失われてしまう。この気持ちを維持するために女は男の境遇へ降下する。


利他的に行為した男の醸すフェロモンによって、福原はファザコンをこじらせたのだった。食堂でカントを読む早稲田文科のインテリ(何たる邪念)水上恒司は、利他的行為を前にしたからこそ芳しいフェロモンを放散し福原を悩殺したのだった。男女ともに抱けないからこそ放出されるフェロモンのジレンマに陥っている。父は利他的行為の如何に関わらず娘を失い、脱営者はどちらにせよ恋人を失う。選択肢を与えるように見える状況は敗北しかもたらさず、状況の到来自体にも個人には責任がない。個人に選択の余地がなければ彼らの救済は社会的課題になる。伊藤健太郎が特攻に当たって覚えた不安はひとりで死んでいく孤独に去来していた。伊藤のフェロモンにやられた勤労奉仕JK出口夏希は自分を模した人形を拵え特攻機に同乗させる。


『あんのこと』(2024)の河合優実もジレンマにはまっていた。寄ってたかって河合をサルベージしようとオッサンたちを奮闘させるのは、彼女が体内に抱える子宮の重さに他ならないが、それは何もしなくとも救いの手をもたらすために河合から生きる力を奪ってしまった。父や特攻隊員たちの利他的行為にも子宮の重さが伏在している。


福原をこのジレンマから救ったのはある気づきであった。いまボールは自分の手元にある。2人の死を意味のある利他的行為にして皆をジレンマから救うのは、外ならぬ自分の行為である。自分が意味のある人生を送れば男たちの行いは利他的だったと定義される。子どもの遭難に遭遇し特攻への志願を問われた時点で男たちが失ってしまった決定権が自分の手元にあるのだ。これに気づいた彼女は自己決定権の晴れ晴れしさに浴する。父は死んで娘に下駄を預けた。その決定権の重さこそ冒頭の彼女を苛立たせていたのだった。