『ゴジラ-1.0』(2023)

怪獣映画の出ない怪獣映画作家としての黒沢清を再確認させられた。『カリスマ』(1999)と『スパイの妻』(2020)で役所広司蒼井優は炎上する街を前にして怪獣と化した。『シン・ウルトラマン』には『散歩する侵略者』(2017)の気配が濃厚だった*1。『ゴジラ-1.0』が連想させるのは『スパイの妻』である。怪物化した蒼井はB-29の編隊に東京を焼かせ脱獄し、逃げた男を追って北米に上陸する。妻が一種の女難と化して話が落ちるのである。『マイゴジ』も油断すると怪物化した女難の影に脅かされる。怪獣映画には場違いなこの違和感を生み出したのは、『シンゴジ』とは異質の思考様式とそれに準拠する構成に他ならない。

マイゴジの展開は迅速かつ遅い。VFXに至る段取りは台詞によって容赦なく圧縮される。大破した貨物船を前にして神木隆之介がとんでもないことを言う。

「そもそもなぜ自分たちはここに?」

艇長の佐々木蔵之介が待ってましたとばかりに状況と任務をまくしたてる。ゴジラはいきなり銀座に現れ、退治方法の検討に尺は割かれず、男たちは容赦なくVFXに突入していく。

この構成には功罪がある。段取りの省略はVFXの求心力を損なったとはいえない。作戦に至る段取りを重視したシンゴジと比べてもVFXの求心力に遜色はない。むしろ、予算規模の違いもあってマイゴジの方が上だろう。段取りの省略は必ずし構成の欠陥にはならない。が、やはり蔵之介の説明台詞はひどいと思う。

怪獣映画の構成を三要素に分けて検討してみよう。「ドラマ」「段取り」「作戦(VFX)」である。男性原理で作動するシンゴジは「ドラマ」を作戦の「段取り」で上書きした。マイゴジは逆に「ドラマ」が「段取り」を潰している。

「段取り」パートとはドラマとVFXの仲介物である。三要素のうちドラマを落としても支障はない。段取りと作戦は容易につながる。作戦だけを落としても映画は成立する。それが黒沢清の怪獣の出てこない怪獣映画の正体である。

段取りを落とす方策をとったマイゴジは「ドラマ」と「作戦」を直に接ぎ木させ、異質の原理で物語を分割した。この構成はシンゴジ的な男性原理から見れば欠陥にしかならない。マイゴジのドラマパートの演出は悪しき現代邦画のステロタイプを地で行く。誇張でも何でもなく演者はずっと絶叫している。展開を迅速にすべく何かを削るのはよかろう。しかしこの有様ならば削るべきはドラマであって段取りではないはずだ。ところが、このドラマパートこそ30回に及ぶ改稿を経てサヴァイヴしたのである。これは何なのか。

ドラマとVFXの接合は冒険主義である。異質の要素は本来すり合わない。殊にマイゴジのVFXのリアリズムは、ベトベトなドラマパートとは隔絶している。しかしもしすり合わないものがつながってしまえば、VFXには相当な求心力が期待できるだろう。ホームドラマVFXをつなぐもの。それは物量(制作リソース)に他ならない。物量こそマイゴジとシンゴジを分けるのである。物量を欠くゆえに、シンゴジはドラマを切り捨て「段取り」と「作戦」だけのストイックな構成を余儀なくされた。マイゴジはホームドラマVFXを直につなげてしまう。シンゴジには欠けていたミクロの視点が一貫してゴジラ災害を包摂して、ホームドラマVFXが際どくつながるのだ。しかしその際どさこそ女難の影の正体なのである。VFXがドラマを侵食し浜辺美波を怪物化しようとする。

そもそも浜辺との出会いが神木にとっては女難じみていた。闇市で赤子を押し付けられ、挙句に家に上がり込んできた。この押しかけ女房ラヴコメがまた長い。

ホームドラマVFXは、有楽町でゴジラに捕獲される省線の63系においてその最たる融接に達する。ミクロ視点の力学が災害を包摂すべく限界まで拡張された結果、浜辺の身体に異変が生じる。

巨大生物に保持され半壊した63系は地上に向けて開口し、搭乗の浜辺は今や墜落の寸前にある。この時点で生存しているのもすごいが、車体から放り出される間際には、浜辺は車軸につかみかかり落下の難を逃れる。くすんだ63系の車体色を後背にして、赤い上着の浜辺が宙づりとなり揺れる。わたしにはある戦慄が走った。この運動神経と筋力は何事であろうか。この人は不死身なのか。これは女難ではないか。

振り回される63系が外堀上空に達すると、浜辺は躊躇なく車軸から手を放し落水する。泳いで岸に上がる段取り描写は容赦なくカット。何の負傷も負わず速やかに数寄屋橋で逃げ惑うモブに合流する。これではクロスジャンルである。スタローンとウィリスの世界である。この混乱の中で浜辺を見つけてしまえる神木もひどい。段取り省略はいいとしてその加減が異常なのである。

世の中には二種類の人間がいる。「段取り型」と「リズム型」である。

「段取り型」は意図の伝達に気をやる人種であり、そのためにはテンポの犠牲もいとわない。「リズム型」は逆にテンポのために躊躇なく段取りを犠牲にする。彼らは雑な人々で、意図の伝達に興味がない。そもそも完全に伝えるのは不可能であり、むしろ伝わらない方が高級に見えるとさえ思っている。わたしは後者の人間であり、毎回の如く段取りを切ろうと試みては演出家に制止されてしまう。そんな雑な人間にすらやりすぎだと思わせるくらいだから、本当に段取りが足りないのである。

高雄の使い方も勿体ない。高雄が近海に来ている情報をもっと仕込めば、機雷戦の求心力は増したはずだ。確かに段取りをなくせばテンポは上がる。が、マイゴジはそれを出来の悪いホームドラマ尺の捻出に使う。これは肯じ難い。省略で浜辺が超人に見えてくるのも欠陥である。怪獣映画であって女難物ではないのである。

そもそも、なぜ女難になるのか。ここでいう女難とは力石と丈を死ぬまで追い込む白木洋子である。『宮本から君へ』(2019)の蒼井優である(そう、またしても蒼井なのだ)*2。必要以上に男のオス性を駆り立て彼らを苛むサディスティックな女たちである。浜辺はゴジラを使役して神木のインポを治そうとしている。浜辺は途中降板により女難化を回避したように見える。死して男を駆り立てたようにも取れる。


マイゴジのプロットは『インデペンデンス・デイ』(1996)の去勢されたアル中、ランディ・クエイドを踏襲している*3ゴジラに去勢された男がオスの自信を取り戻すべくゴジラに特攻をかけるのである。銀座一連のVFXにもID4の影響は濃厚である。

神木を再特攻に追い込む装置は入念に仕込まれている。故障を装い特攻を逃れ大戸島に着陸する。島で襲われたゴジラには腰を抜かし、整備員たちを見殺しにする。銀座でゴジラの熱線に襲われると浜辺に身を庇われ生き残る。しかし入念さが仇にもなる。

クエイドの特攻は受け手には予知ができない。当人すら直前まで特攻するとは思っていないからだ。最初からそれを意図し実際にそれを遂げて終わってしまえば、受け手の想像力を越えられない。したがって、特攻する気満々の神木が特攻以外の結末を迎えるのは明白である。紛らわしいことに、脱出装置の伏線までも見え透いている。ID4を踏襲するとなれば、特攻は二段階構成だと想定される。クエイドが最後のミサイルを抱え登場するも、パイロンの故障で発射に至らない。去勢の暗喩であるが、ここでクエイドは宿命を知ってしまう。特攻を措いて他にオス性を究極的に奪回する手段はないと悟る。

これを神木に適用すれば、特攻かけつつ脱出成功するもゴジラは斃れない。そこで何らかの真の特攻が執り行われるだろう。と、こちらの斜め上な思惑をよそに神木が脱出して「完」になってしもうた。脱出の伏線が見え見えでないと作者は考えたらしい。

ではマイゴジは受け手の想像力の枠内にとどまった話で終わるのか。そこは恐るべき山崎貴脚本である。『永遠の0』(2013)のラストカットで岡田准一サイコキラーに仕立て*4、『アルキメデスの大戦』(2019)で大和神話をオカルト化した男である*5。今回もこちらの想像力の斜め上を行く驚愕の結末を用意した。浜辺がナニしていたのであった。

あの熱線をまともに喰らってナニであるから、63系で宙づりになった彼女に覚えた違和感は正確だったのである。この女は不死身なのだ。怪獣はゴジラではなくこの女なのだ。『スパイの妻』の蒼井が東京上空にB-29を召喚したごとく、浜辺はゴジラを呼び寄せ神木のインポを治したのだ。三万人を焼き殺して。

さすがにこのオチでは気まずいのか、浜辺の予後は暗いと示唆して話は終わる。わたしから見れば、そこからようやく真のゴジラ-1.0が始まるのであるが。

同じ浜辺美波であるのに『シン・仮面ライダー』とはどうしてこうも扱いが違ってくるのか。ルリルリ浜辺は決して女難化しない。『宮本』とは違い池松壮亮は溢れんばかりの媚びに全く感応せず、柄本佑と男だけの世界にいってしまう。庵野秀明は女好きだが女に興味がない。それでみやむーには嫌われ『風立ちぬ』には起用されてしまう。

段取りを潰してドラマを立てる。ドラマを潰して段取りを立てる。彼我のマインドセットの違いは究極的には顔面偏差値の差に帰結すると思われる。