『帝一の國』(2017)の感化はあると思う。菅田将暉の登板がそもそも帝一を踏まえたものだろう。『帝一の國』には色々と感ずることがあったが、その永井聡演出はやはり一定の影響を各方面に与えたようである。
話は別にしても、美術を見てるだけで満足する類の映画である。殊に鶴瓶造船所の事務所が夕景色に染まってくると恍惚としてくる。鶴瓶はそこですかさず「ワイは戦争でなく商売で云々」とリベラル演説を始める。わたしは現実に引き戻される。いや、まさにその時期、低為替で輸出攻勢やって貿易摩擦を起こしまくって戦争の一遠因になったでないか。まあ、これはこれでアレな見方かもしれんが。
この話、前提がおかしいのである。
大和が完成すると日本民族の自信が昂進して対米戦始めると舘ひろしが説き、大和建造を阻止すべく菅田将暉が動機づけられる。
これは無理筋だろう。一戦艦の有無は開戦の決定過程に何の影響も及ぼしていないだろう。そう考えてしまうと、建艦阻止に意味を見出せなくなり乗れなくなる。しかし乗れないながらも、菅田のオペレーションズ・リサーチの行く末自体は気になる。オチになれば、前提の無理筋を作者は了解していたと判明する。平賀譲の田中泯が菅田の籠絡を試みるのである。曰く、大和があろうとなかろうと対米戦必至であると。
では、これで常識に収斂するかと思うと狂う。もっと狂う。泯がむちゃくちゃなことを言い出す。曰く、
「対米戦となったら、勇ましい日本人、全滅するまで戦う」
「しかし大和が完成すれば民族の依り代となる」
「依り代が沈めば日本人萎えて民族絶滅の前に降伏する」
もはやオカルトである。
話は、就役した大和を見送って涙する菅田で終わる。マクロの政治現象に介入できない技術屋のくやしさ、あるいは宿命感の甘受といえばいいか。大和が開戦と降伏の意思決定過程に介在できるとするIF戦記はこのくやしさの裏返しだろう。技術屋のマイクロな世界観が社会科学を包摂するべく、呪術のような飛躍を遂げたのだった。狂気ながらも、いや狂気だからこそ、何事かに収斂したのである。