『シン・ウルトラマン』(2022)

特撮に関心がなくとも、現代邦画ファンには注目の作であろう。樋口真嗣の本編演出にあろうことか長澤まさみを配役したのである。この狂気の沙汰を理解するにはいくばくか言葉を費やす必要がある。

特撮ファンならぬ邦画ファンにとって樋口真嗣とは何者か。イーストウッドとタメを張る役者放任演出家である。樋口の初本編監督作『ローレライ』の驚きは忘れられない。役所広司が棒なのだ。さすがにやばいと思われたのか『のぼうの城』は犬童一心との共同監督。つづく『進撃の巨人』では、またしても邦画ファンを驚愕させた。國村隼が棒なのである。

役所や國村すら、適切な導演が入らないと棒になってしまうのか。映画作りの困難を樋口は身をもってわれわれに教えてくれたのだった。しかし、『シン・ウルトラマン』を見て、どうも違うんじゃないかと。西島秀俊が棒になっている。あの匂い立つナルシシズムが完全に脱臭されている。放任されるのなら、制御を外れた西島のナルシシズムは大爆発するはずだ。ところが棒なのである。役所も國村も西島も放任され結果、棒になったのではなく、むしろ積極的に棒化する魔性の導演だとしたら。

長澤まさみの登場である。映るのはずっと背中である。散々焦らされて一声がくる。わたしは驚愕した。台詞が言えている。棒になっていない。禍特対で彼女だけが樋口の魔性演出を免れ、棒にならないのである。何なのか。

長澤まさみのことを語らねばなるまい。現代邦画ファンにとって長澤とは何か。難物である。不自然である。自分が美人だと自覚する彼女は、演出のタガが外れると、たちまち挙措に媚びを生じさせてしまう。

長澤が配役されると演出家は力量を問われる。それを樋口にぶつけるのである。そりゃ媚びが膨れ上がって巨大化もするよな、とワクワクしつつ劇場に赴いたらそれほど媚びが気にならない。かといって棒でもない。まことに適切な長澤だったのだ。

負の導演力は、西島に際してはナルシシズムを脱臭するまではよかったが、作用が強力すぎて棒にまで引き落としてしまった。しかし長澤に際しては、媚びを中和できても棒まで落とし込む力は持たなかった。いい塩梅だったのである。



すべてを棒読みに落とし込んでしまう負の導演。われわれはこれをよく知っているはずだ。小津安二郎である。実相寺パロなんて代物ではない。これは意図せずして成立した小津パロなのだ。

それがわかった瞬間、全てのカットが笑いと感動になった。わたしはかねがね、小津の叙法でSFを撮ったらさぞかしグルーヴィだろうと妄想してきた。今、それが目の前で展開されている!

ウルトラマンだからといえばそれまでなのだが、ザラブ星人が禍特対に乗り込んで来たときには、こんな幼稚なものを昼間から観ていいのかと、謎の背徳を覚えるに至った。劇中でもさすがに自嘲気味になりつつも、大の大人が真顔でこのマンガなる事態に取り組んでいる。狂気の世界観である。いかにもSFらしい気色の悪い人類賛歌を正視させるには、このくらい狂わなければなるまい。

棒読みの地球人が愛おしくなるではないか。気づけば斎藤工山本耕史と同化している。彼らは棒読みが要請されるキャラクターゆえに樋口演出とマッチングする。狂気の世界観と受け手の橋渡しをするのである。



長澤をむしろ放任することで、逆説的に制御しえた作品に前に言及した。『散歩する侵略者』である。この映画は、長澤の媚び躁声を困惑表現に置き換えたのだった。

『シン・ウルトラマン』は『散歩する侵略者』の影響下にあるとわたしは考える。長澤の配役もひとつには『侵略者』の感化があるのではないか。『侵略者』では「愛の概念」を奪われた長澤が喜怒哀楽を失う。これは巨大化した長澤の原型のひとつだろう。松田龍平東出昌大にも斎藤とメフィラスの原型を認められるはずだ。

結末も、侵略宇宙人松田が愛の概念を知ってナヨナヨになるSFらしいヒューマニズムである。これ自体はよくある話としても、ベタなヒューマニズムを両作とも棒読みで、つまり不思議な距離感で対応しているのである。