長回し考

『ヤクザと家族』の綾野剛舘ひろしが車中で惚気話をしていると刺客に襲われる。この場面が気に入らない。バイクが後方から来て並走する。ライダーが銃を構える。舘を狙う銃口を認めた綾野が身を呈して舘を庇う。発砲。車は路駐車に激突して停止。これがワンカットである。この場面、少々喜劇じみているのだ。


現代邦画がワンカットでアクションを試みると、時に妙な具合になる。


『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』(2012)に不思議な場面がある。野外フェスの長回しである。奥野瑛太が車に追われる。しかし人に車がなかなか追い付かない。追いついたら話が終わるので車がシナリオに忖度してしまう。


『その夜の侍』(2012)の終盤、堺雅人山田孝之の殴り合いがワンカットで延々とつづく。これが喧嘩に見えない。堺がキレのある動きを抑えるべく、むしろ自分と戦っているように見える。本気でやったら芝居にならないのである。


『ヤクザと家族』はまず刺客が銃を構える挙措が芝居ががっている。銃を取り出し構え終わるまで1秒半もかけている。その挙措をずっと綾瀬は見守り、銃口が舘に収まると行動を起こす。更にまずいのは今度は刺客が綾野の行動を見守り、舘を庇う動きが完結して、初めて発砲する。結果、銃口を向けて発砲するまでの間が1+4kある。アクションにおいて1秒の間は永遠に近い。「押すな押すな的な」配慮の喜劇に感ぜられてしまう。


銃口を向けるや発砲すべきである。これを実現するためには、綾野の挙動開始を前倒しするべきだ。試みに、銃を構える1+12kの動きをすべて中抜きしたところ最適なタイミングとなった。銃を構えるモーションの最中に綾野は庇う動作に入らねばならない。同時に、構える動き自体をもっと簡素にするべきだ。長回しでこのタイミングに持っていくにはテストを重ねる必要があるだろうが、そこは現代邦画の宿痾、そんな時間が取れないと推測させられるのである。


『ヤクザと家族』、冒頭も長回しである。原付でやってきて斎場に入る綾野をカメラが追いかけ、彼が着座するとカメラは正面に回り込み、画面は綾野のアップショットになる。わたしには最近、長回しが知的怠慢に見えてきた。


夏目静子が相米慎二を「頭が悪い」と辛辣に評している。演技指導をせず役者に考えさせる相米が夏目にはそう見えたらしい。


夏目の『魚影の群れ』は相米長回し映画の極北『ションベン・ライダー』と製作が同年である。『ションベン』はほぼキートン的スタント映画で、役者の気合と根性にあふれている。


『ヤクザと家族』の遭難場面に戻る。銃撃の後も長回しは続く。衝突した車から綾野は這い出る。運転していた弟分が事切れたことを知り、その骸に泣きつく。ここも気に入らない。ふたりの後背で舘が放置され手持ち無沙汰になるのだ。舘は放置感を取り繕うと悲痛の演技を試みるのだが、それがわかるだけに放置感がよけいに際立ち気まずくなる。鬼滅の劇場で顕著に見られるような、モブキャラの統制ができていないアニメの症状である。


もっと綾野にカメラを寄せて、舘の姿を消すべきなのか。不在にしたらそれはそれで舘の動向が気になる。あくまで舘の姿は捕捉されるべきだ。ではどうすれば。


カットを割って、1カットでもよいので舘のアップショットを挟み込み、彼の主観を一瞬、場に導入する。これで放置感は解消されるはずだ。あるいは逆に遠景にして、綾野らと舘の感情を等距離に俯瞰するカットを用意する。


カットを割るのは苦しい。現場的にもだが、何よりも考えねばならない。長回しはその知的な労力を根性で代替する試みに見えてしまうのだ。


『ヤクザと家族』の題材は現代的だが、内容は実録物以前の任侠映画である。高倉健が忠節を尽くす組は近代ヤクザに蚕食されつつある。この筋の問題は高倉一派が無能に見えかねない点にあり、『ヤクザと家族』もこれを踏襲してしまう。舘は格好つけるだけで仕事は出来なかった。悲嘆する綾野を傍観するしかない遭難後の舘がこれを象徴してしまうのである。