構成への意欲が失われ、詩が誕生する 『アメリカン・スナイパー』


ブラッドリー・クーパーが戦死した僚友の葬儀に参列する場面がある。彼の後背には、儀仗隊が立て銃で整列している。母親の弔辞が終わるや、彼らは執銃動作に入るのだが、ここの場面構成が、わたしには気に食わない。かかる場面では、執銃動作に応じてカットを割るべきではない。画面はあくまでクーパーや母親のバストショットを維持すべきであり、儀仗隊は彼らの後背の片隅で弔銃を淡々と放つべきである。ところが、語り手はカットを割って、画面を執銃動作の寄りにして、それを呈示せずにはいられない。


見せたいものを大写しするのは野暮である。儀仗隊の動作を呈示させたいのは、そこに政治的含意があるからだ。しかし、かかる含意を伝えたいあまり、性急に寄ってしまえば、かえって含意は見失われかねない。


カット割って寄りたい欲望も、カット割らないでほしい欲望も、根は同じものだろう。見せたいものを見せるのは自然だ。あの場面は、儀仗隊に寄りたくなるのが自然であり、そうすることで、カットは違和感なくつながってしまう。それこそ、かかる含意を感知したという実感を伴わせないほど自然に。


もし、執銃動作に画面が寄ることなく、人々の背後で儀仗隊が動作を続ければどうなるか。わたしたちはアレを見たい。だが、語り手はその全容を見せてくれない。じらされたわたしたちは、それが大写しになるよりも一層、画面の隅の彼らの動作に着目せざるを得なくなるだろう。


+++


イーストウッド映画のメイキングは常に緊張をはらんでいる。役者もスタッフも、いかにクリントが早撮りで自由にやらせてくれたか述べるばかりだ。老人が現場に対する集中力を喪失している証左である。


イーストウッドが構成への意欲を示した時、場面は往々にして凡庸になる。本作では、80年代のアクション映画かと見違うような夜間の近接戦闘が、その最たるものだ。被写体に対して不気味な距離感を保ち続けた『ゼロ・ダーク・サーティ』の方が、賛否はどうであれ、演出への意志は明確だろう。


しかし、話はそう簡単でもない。老人が構成への意欲を失い、現場を演出の支配から解き放ったとき、そこにはイーストウッドでしかありえない、奇妙な刻印が残されることもある。



対戦車擲弾筒を構える少年を、狙撃しまいかどうか、クーパーが苦渋する場面が出てくる。この場面は奇しくも、彼と後方の儀仗隊を対比した墓場の場面と類似する。画面手前には、少年を殺すべきか、苦悶するクーパーがいて、その後方にはスポッターが控えている。このスポッターの挙動が尋常ではないのだ。閑雅でアンニュイとしていて場違いなのである。演出家の制御がまさしく及んでいない。ところが、われわれは彼の挙措から目が離せなくなる。かかる場違いな挙措が、殺し合いが日常となってしまった、疲弊した無感動を表現し、わたしたちを惹きつけてしまうのである。老人が演出を意欲すると、野暮が始まるが、演出の意欲を失うと、拡散した老人の集中力に感化されるように、人々は詩性を帯び始める。


新幹線大爆破』の喫茶店炎上の件は、何度も言及した。アレはほとんど、不運という事象に対する哲学的考察に近い。佐藤純彌の現場での集中力の散漫さはよく言われる。炎上の件も、佐藤は悪びれもせず、ネタが尽きたと述べている。


構成への意欲が失われると詩が誕生する。世の中にはそういう現象がある。


+++


アメリカン・スナイパー』は、いささか歪な構成が、かかる歪さゆえに、受け手の興味をけん引するファクターとなっている。


本作の冒頭はクーパーの人生を俯瞰する総集編のような構成になっていて、これが本編ともいうべき、イラクに舞台が移ると、マクロな時間の流れはより詳細になり、普通の映画となる。わたしたちは、そこで、構成についての疑問に襲われる。人生を俯瞰した総集編と本編があまりかみ合わない。あるいは、なぜ冒頭で俯瞰する必要があったのか。


老人の集中力は、構成の面でも、フィルムに感化を及ぼしている。老人の天然は、構成を歪にしながら、かつ、それを救ってしまう。


本作は、クーパーの遭難をわずか一行の字幕で言及して、投げ出すように話を終えてしまう。そこには、老人の消尽がよく表現されている。だが同時に、かかる投げやりな一行が、一気に遡及して、話のそれまでの意味合いを変えてしまう。語られた事件が、ある生涯の俯瞰だったとわかり、冒頭で人生をダイジェストした構成が、合理化される。投げ出しだからこそ、そこから生じる感傷は鮮烈だ。本編であるイラク編こそが、最後に明らかにされる人生の俯瞰性を、隠ぺいしていたのだった。


描かれたものが生涯の俯瞰だったと最後に判明する手管は『プロジェクトX』が好んだ構成でもある。


+++


散漫な構成が誤誘導するのは『父親たちの星条旗』も同様である。


死の床で父親は誰かの名を呼んでいる。息子はそれが誰なのか、探し当てる。物語の構成は散らかっている。戦場にある若き父親の活写と、現代の、謎を探る息子の場面が無造作に連なっていて、過去の父親の場面もその中でさらに時系列を往来する。ポール・ハギスらしい凝った構成に、老人の集中力が散乱しているように見える。


やがて謎は突き止められるが、散らかった構成の混乱の中で、いつしか、物語の謎探しも忘却される。しかし、かかる忘却こそ誘導であり、感傷の源泉を担うのである。本当は誰の名を父親が呼んでいたか、最後に明かされるのだ。