マンガ的想像力の臨界 『永遠の0』


山崎貴のマンガ的想像力は、しばしば、キャラクターの下品な挙措や極端な紋切り型の造形として結実してきた。『SPACE BATTLESHIP ヤマト』では、佐渡酒造のミーに際したキムタクに、「ねこ? ねこ!」としつこく咆哮させ、マンガ的造作を存分に発露せしめるとともに、山崎努のモチベーションを極限にまで追い込んだ*1


本作でも、冒頭の葬式、三浦春馬の汚らしい摂食の挙措から端を発したそのマンガ的想像力は、合コンで春馬を痛罵する、同輩たちの信じがたき冷酷な言動を以て、ピークに達する。


ところが、これもまた時として、彼のマンガ的想像力はマンガであることに忠実であるがゆえに、思わぬ効果をもたらすことがあった。


ALWAYS 三丁目の夕日』では、それこそ本作の合コン場面のごとく、マンガ的想像力は、小日向文世をこれはどうかと思われる冷酷な造形にすることで、小日向が生来持っている闇を引出し、われわれを震撼させた。


『ヤマト』でも、伊丹十三映画のような山崎努のアンニュイさは、われわれをジャンルムービーの思考から解き放ち、佐渡酒造が山崎の特殊関係人になっているかのような不穏さを醸した。


本作の針むしろのような合コンも、針むしろであるからこそ、来るべき浄化に資している。マンガのような針むしろが、田中泯との邂逅の感激を高めるコンフリクトとして、機能するのだ。


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おそらく、戦場心理の実証的見地からすれば、岡田准一の行動は不可解なものとなるだろう。銃後の家族のために、彼は避戦的行動をとるのだが、彼がそうすることで、目前の僚友のリスクが増えることを想定すれば、彼の行動は受け手の共感を損ないかねない。


これは、岡田の利己性を問題にしてるのではない。気になるのは、心理的な機制に見受けられる違和感である。銃後の家族に想いがあろうとなかろうと、目の前で僚友が危機に陥ったら、体の方が勝手に動くはずだ。そうでなければ、彼の行動は臆病というよりも、何か離人的なものを感じさせる。


かかる違和感を、土壇場になって埋めてしまうのが、マンガ的想像力の誤配線なのである。


タイコンデロガに突入の直前、山崎のマンガ的想像力は、岡田の芝居にまた要らぬ造作をさせる。敵艦を前にして彼は微笑するのだが、これが澄明で抑制されたものであれば、ありがちではあるものの、諦念かそれに類する解釈を付託できたのである。ところが、マンガ的想像力は過剰なのだ。岡田はギラギラと脂ぎった、凶悪な笑みを浮かべるのである。その内心を推測すれば「ぐへへ」である。


一見して、これは不可解である。避戦を続けてきた抑圧的な造形に似つかわしくない。しかし同時に、わたしたちは、あの笑いに不思議な解放感をも覚えてしまう。生の躍動をそこに見出してしまうのである。心理的な機制に違和感を覚えざるをえない、いかにも作り物じみたキャラクターが、今、初めて人間として立ち現われている。これを一言でいえば、こういうことである。こいつはやっと本性を現した。


あの凶悪な笑みからわかることは、破壊願望である。男は、破壊が好きで、人殺しが好きで、戦争が好きで好きでたまらない人格障害者なのだ。


岡田が戦場心理の機制を免れていたのも、その冷酷なマシン性を考えれば、説明がつく。マシンであるがゆえに、僚友のリスクは克服される。そして、勳に後事を託してしまえると、彼のマシン性は然るべき姿を取り戻したのである。彼の人生の課題は、その破滅的な特性に相応しい形で、解消されたのだった。


山崎のマンガ的想像力は、小日向の造形の闇を引き出した如く、またしてもやってしまった。岡田の造形の闇は、語り手からしては全くの誤算なのだが、しかし、無意識であるからこそ、結果は壮烈なのだ。


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わたしは、グリーンヒル大将のことを思い出した。


良識派グリーンヒル大将がクーデターに加担すると、わたしたちは、その意図の不可解に当惑してしまう。そこで語り手は、グリーンヒル大将を妻の墓前に赴かせ、自らの動機を説明させる。若い連中は性急だから、押さえられるのは自分しかいない、と。しかし、動機はこれで納得できるとしても、それはそれで格好をつけているように感ぜられる。やがて、彼は本音の吐露してしまう。


「あの子は判ってはくれんかな、母さん」


本音を聞くことで、わたしたちはグリーンヒル大将に人間を見て、やっと理解の範疇に彼を落とし込めるのである。