李修賢 リアリズムの闘い 『喋地雙雄』と『公僕』


語り手が本気で狂ってるとわかってしまう場面がある。鶴田真由が伊勢谷の手にかかる回想で、われわれは『CASSHERN』の紀里谷和明が完全に本気だと知ってしまう。そして、呉宇森がただのオジサンでないことを教えてくれるのが、『蝶血街頭』のカーチェイスで挿入される、ママチャリ競争である。この両者において、話の辻妻合わせは同時に語り手の特異な価値観を謳わずにはいられなくなる。


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ここ何年か『喋地雙雄』と『公僕』の李修賢を思い返すことがあった。それぞれ話で、例によって刑事役を演じる彼は、それぞれにおいて僚友を失い、終盤でその復讐を遂げる機会を得る。『喋地雙雄』の呉宇森は、投降した成奎安を躊躇なく李修賢に射殺させることで、やはり自分がただのオジサンでないことを露見させる。





『公僕』でも終盤、相棒を殺した犯人を追いつめた李修賢は、投降しようとする彼に銃を向ける。遡及的な形ではあるが、李修賢が投降者に向かって発砲したとき、『喋地雙雄』の結末を知るわれわれは、彼が犯人を射殺してしまったと解釈してしまう。ところが次のカットで犯人は生きている。弾はすべて脇に逸れている。『公僕』を監督した李修賢は、ほんらい呉宇森とは全く別の世界の住人であって、彼の実録的なリアリズムと呉宇森のレオーニ的なロマンティシズムが、同じ役者に同じ状況を与えることで明快に対比されたのだった。


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この対比で連想するのが、『レザボア・ドッグス』と『パルプ・フィクション』である。が、その前にペーターゼンの『U・ボート』の話をしたいのだが、たとえば、やっと生還できたのに最後はヤーボにやられてしまうような物語の類型がある。『ペリリュー・沖縄戦記』には戦闘が終結した後に銃の事故でなくなってしまう兵隊の話が出てくる。帰還兵が戦場に返される『父親たちの星条旗』も大きな意味ではこのテンプレに入るだろう。


パルプ・フィクション』のトラボルタ&サミュエルのパートも、途中まではこのテンプレに乗ってしまったように見える。荷物を回収したのに不慮の事故が起こる。ハーヴェイ・カイテルの仕事で一端は危機が去るも、最後にファミレス強盗に遭遇する。われわれは『レザボア・ドッグス』の結末を知っているから、不吉なパターンにはまったと考えてしまう。が、そこでサミュエルの説教が始まり、『パルプ・フィクション』の基づく価値観が『レザボア・ドッグス』のそれとは異なることを知らされる。語り手は『秘宝』的な価値観、つまり殺し合って筋を通すようなロマンティシズムの物語道徳とは距離をとっている。この意外さを好ましく思い出したのだった。


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李修賢の警察実録路線はやがて猟奇物に活路を見出し、『八仙飯店之人肉饅頭』という極北に至ったことは幾たびか言及した。『公僕』でもう二度と殺すまいと誓った彼は、『人肉饅頭』のアンソニー・ウォンに暴虐の限りを尽くしている。対して『レッドクリフ』の呉宇森は今や穏和なエンタメの地平に至ったかのように見える。われらが李sirは完全に狂ってしまったのか。呉宇森の病気は治癒されてしまったのか。そんなことは断じてない。どんな狂気を装っても結局『人肉饅頭』は人権問題と人格障害の文脈に吸収され、李修賢のリアリズムは狂うことを許されない。むしろ狂わないことで狂っている。一方『レッドクリフ』のラストで、われわれは呉宇森があの呉宇森のまま、ゼロ年代を生きながらえたことを知って感動を覚える。対話するトニーと金城の息のかかるような顔面の近しさや、虹の架かる図像性過剰なロングに彼の病的な息づかいを感じるのだ。