男の美意識が猟奇化する浜辺 『HANA-BI』


HANA-BI』のラストがよくない。あの二発の銃声を聞くと、最初に岸本加代子を撃ち抜き、次いで自分に銃口を向けるという小忙しい所作が見えてきて、説明過多に萎えてしまう。そもそも銃声で事態を説明する必要はないのであり、ただふたりの俯瞰からブームアップして水平線を捉えれば、あとは尺の長さで、話の価値観は伝わるのではなかろうか。『山椒大夫』から『気狂いピエロ』に至る浜辺映画のそれのように。



この問題を考えるべく、本作のラストを見返してみた。



まず、寺島進がいけない。浜辺のふたりを見て、「あんな風に生きられない」と感想を漏らしてしまう。そんなものは表情で語るべきではないか。



問題の銃声のところでも、新たに気づいたことがある。銃声の後には北野井子のバストショットがつづき、彼女の表情を以てして、銃声が語ったはずのイベントが再び説明され、やはり冗長な印象を受ける。


井子のショット自体は、クレジットに入るに際し、銃声のバッファとして必要なカットだろう。収まりを考えれば、銃声からそのままクレジットに入るのはつらい。つまり、銃声という説明が、今度は井子の顔面という説明の呼び水となっている。



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HANA-BI』という浜辺映画に、銃声という説明過多のリスクを負わせたものとは何だったのか。浜辺をクレーンアップする『山椒大夫』のラストと本作のそれを対比して気づくことは、カット尺に執着しない、という後者の半ば強迫的な態度であり、その観点に立てば、銃声の意義は変わってくるようにも思う。逆説的ながら、銃声からなされるくどい説明によって、『山椒大夫』の要した浜辺映画の長尺が劇的に短くなるのだ。この裏にあるのは、浜辺に行けば溝口になりかねない、という心理である。浜辺映画の呪縛が説明のリスクに作品を駆り立てている。



演出論への自意識は、銃声に込められた美意識をも転倒させるように思う。男の猟奇的な美意識を語るために銃声が放たれるのではない。浜辺映画の呪縛から解き放たれるために、カット尺を即物的に短縮するために、銃声は轟き、結果として男の美意識は猟奇化するのである。