地球の片隅で白いハトを飛ばす

ロマンティシズムの映像文法は、対話や振る舞いの間合いに心理の説明を託します。ダイアローグで費やされる間合いの長短が、ロマンティシズムとリアリズムを分けるのです。



リアリズム文法で作られた『仁義なき戦い 頂上作戦』('74)とロマンティシズム文法で作られた『広島仁義 人質奪回作戦』('76)の小林旭を比べてみましょう。



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それぞれの台詞の間を図解するとこうなります。








時間に情緒的な帰依をした『広島仁義』のロマンティシズムと比べると、『頂上作戦』のリアリズムは簡素です。しかし図表からわかるように、いちいち時間的なりソースを費やすロマンティシズムに機能的な描画は向かないでしょう。



リアリズムは、心理を説明するというロマンティシズムの動機自体を疑います。感情は記述できるものではなく、もし説明できるとしたら信憑性がない。小津は言います。泣いたり笑ったりすれば感情を伝えるのはやさしい。しかしこれでは単に説明であって、いくら感情に訴えてもその人の性格や風格は現せないのではないか*1。小津のカメラに動きはなく、アオリも俯瞰もありません。台詞の抑揚すら押さえます。ただ即物的にカットを積み上げる以外に、感情の信憑性を伝える術がなかったと考えたのです。



実録やくざ映画は、邦画のリアリズム最後の砦でした。『頂上作戦』と『広島仁義』の公開にはわずか2年の開きしかありません。しかし価値観の変わり様は明らかでしょう。以下は、邦画リアリズムの断末魔というべき『新仁義なき戦い 組長最後の日』('76)とロマンティシズム文法『広島仁義』のラストです。



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90年代のおたくは、邦画に予算的な制約がなくなったらどんなによかろうかと夢想したものでした*2。わたくしは『ガメラ3』('99)の感激を今でも覚えています。『アルマゲドン』とハシゴしてもそれほど見劣るものではなかったからです。『ID4』のあと『ガメラ2』を見た時は泣きたくなったのに。しかし樋口真嗣の本編進出とその顛末はわたくしたちに教訓を残しました。3Dとコンポジット技術の普及だけではどうにもならないものがある。



ここで『ミスト』('07)を参照しましょう。照明設計の質感や手持ち望遠の画面設計に今昔の感はありますが、時間の流れは『頂上作戦』のリアリズムの延長にあります。



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彼らは、わたしどもが30年前に捨てた文法で愚直にカットを重ね続け、ついに『ボーン・スプレマシー』『ミスト』『ダークナイト』へたどり着いたわけです。



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『ミスト』も『ダークナイト』も、シナリオレベルではリアルでありたい漫画です。リアリズムの映像文法の支えが必要でした。同じくリアリズムでありたい漫画であった『ローレライ』にはそれが欠けていたのですが、これを本編演出ひとりの責任に帰するのは酷でしょう。



伊丹十三は邦画のロマンティシズムと命を賭して戦い、無惨に滅び去りました。北野武は顔面を破壊され転向を余儀なくされました。邦画リアリズム最後の巨人、宮崎駿は今や遠い空の向こうです。他方で、押井守はそもそも最初からリアリズムではない。『攻殻機動隊』('95)を参照しましょう。リアリズムで流れるべきアクションを妨害するのは、発砲に至る段取りの丁寧な説明です。これはロボアニメの合体バンクの精神と何ら変わるところはありません。



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邦画のリアリズムがすべて滅びたと言うつもりはありません。いわば程度の問題です。たとえば技術の普遍性で、今の邦画でもエフェクトカットは極端なリアリズムの形を取りやすい。それがロマンティシズム文法の本編と不協和音を起こすことは、樋口作品に限らず邦画ではよく見られることです。ここでは『僕は、君のためにこそ死ににいく』('07)を参照しましょう。



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わたしどもにとって、リアリズムは借り物にすぎません。『時かけ』やヤマカンのリアリズムは、グリーングラスやノーランに比べれば計算高くて繊細で頼りない。計算しないと手に入らないのですから。一方で、今日のジャンルアニメ一般はロマンティシズム文法の申し子です。どこまでも記述過剰で野暮ったい。しかし表現の強度において、それは『時かけ』やヤマカンと比べるまでもない。自分たちの武器で黙々と戦っているから強いのです。



わたくしは香港時代のジョン・ウー先生を思い出します。わたしどもは地上の最果てで白いハトを飛ばし続けているのです。