國村隼 セグメントとタイポロジーを越えて『アウトレイジ』


アウトレイジ』の冒頭にはテクニカルな問題があるとこれまで考えてきました。冒頭と次カットのつなぎにどうも違和感が拭えないのです。



最初のショットは現場の強面なおやぢ達のミディアムをドリーでゆっくりと収めます。望遠でしかもハイスピード撮影ですから、きわめて主観性のあるショットです。この、いかにも今時のジャンル映画然とした画から、國村隼らが会食するカットにつながると、一気に俗化した印象を受けてしまう。ショットそのものに風雅がないとは言いません。レンズも時間も標準に戻され、主観的なカットからとつぜん現実に引き戻される。その落差がネガティブに働いていると考えるのです。



語り手はワークの統一によって、この落差を乗り越えようと試みていますが、レンズの相違を乗り越えるものではありません。國村にこだわりがないなら、数カット先の北村総一朗のバストに飛んでしまうのも手でしょう。その方がよほど違和感なくつながったはずです。國村の導入と造形説明は、三浦友和との対話によって果たされています。友和に呼び止められて國村のバストになる。本作が準拠するのは簡素なリアリズムの文法ですから、國村の導入はそれで十分だったでしょう。したがってあの落差はむしろ意図したものとも考えられます。



現場の強面と國村のつなぎは、中間管理職や現場の悲哀を対比によって説明したい意図にも見えます。落差もその説明の一環と解せるでしょう。しかしこれは追々具体的な事件によって自ずと説明されるものであり、わざわざ視覚的な違和感の危険を呈してまでやってしまうと、風刺的なイヤらしさが生じかねません。



では一層のこと前カットと同じく望遠で國村を撮ってしまえばどうか。おそらく違和感はなくなるでしょう。代わりに観客は國村の主観に寄り添うことになります。『アウトレイジ』が違和感を冒してまで避けねばならなかった理由はおそらくそこにあって、われわれは國村の主観からあくまで隔離される必要があった。それならば、どうして國村の内面に入り込んではいけないのか。また再度問いかけるなら、なぜ違和感が避けがたいのに、あそこで國村につなげねばならないのか。



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アウトレイジ』は造形のタイポロジーとセグメントの抗争劇です。セグメントのサバイバルに着目すれば、童貞の映画マニアがサバイブするジャンルムービーと変わるところはありません。ただ文系サバイブの予想は武断的な語り口によって軽く隠蔽されており、結果として友和、小日向、加瀬が歓談するラストカットは真っ当すぎるがゆえの誤算と平和に満たされています。それは『キッズ・リターン』に類するものであって、虐げられた造形の救済劇が直球で繰り出されている。椎名がポイ捨てでマル暴にドヤされるのは愛嬌ですが、総一朗にどつかれる友和、署内ですらボコられる小日向がトゥルーエンドを迎え、椎名がもっともひどい曲芸を呈すると、語り手の教育的感化は完全に本気だったとわかる。村瀬組の顛末も際たるもので、文系と武断的体育会系のタイポロジーはそこにおいて崩壊します。



アウトレイジ』はまた、セグメントの連帯感そのものをエンタメとして活用します。暴虐的な北野一派からどう見ても浮き上がる加瀬が、あまり接点のない友和に杉本哲太を介してつながる場面には、師弟もののエンタメ感がわき上がり、さらに接点のない小日向が友和を介してつながる前述のラストカットには、セグメントの完成を見た文字通りの平和がある。中野英雄の復讐劇もセグメントの連帯と見なせば、彼に刺される北野のうめき声と「木村かあ〜」という因果を享しむかのような声音は性の交歓にもとれるでしょう。



しかし、セグメントとタイポロジーの物語においてただ一人、掬いきれない人物がいる。それが國村に他ならないのです。



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國村の造形を一種の発明として認知せねばならなくなるのは、やはりあのカジノ遊びにあると考えます。さしあたって國村の思惑通りに事態が進むことから、基本的には天然が入るにせよ何らかの思慮が彼にあると仮定するよう観客は誘導されます。ところが破門した北野の賭場にノコノコと現れた彼は、もはや策謀と天然がない交ぜになった造形ではなく、理解を拒み行動の全く読めない人格性の闇として、われわれを当惑の極みに至らせ笑わせてしまう。あるいは笑う以外にとるべき態度を見失わせてしまう。語り手自身にもよほど不可解だったらしく、わざわざ北野にその不気味を憤慨させ突っ込ませて、またしても微笑を誘うのです。





アウトレイジ』は國村のシャブ凌ぎさえなかったら、そもそも起こりえなかった物語でした。國村という造形の空洞化を考えると、彼は人格を持ち得ない自然災害として、人々に災禍をもたらす役割を負ったと言えるでしょう。セグメントとタイポロジーの縦横を司るからこそ、國村の属人性は脱落せねばならなかった。冒頭のカットつなぎの違和感はその高らかな宣言だったと今にして思うのです。