仮文芸

現代邦画とSFの感想

自動的な童貞 『春の日は過ぎゆく』『ハピネス』

古泉一樹が嘆くように、愛の属性主義には自分がしてやったという実感が往々にして伴われません。その愛は、わたしのあずかり知らぬ所与の属性によって成立した。ホ・ジノの世界観においては、女は童貞という属性に惚れたのであって、愛の属人性は否定されています。したがって、愛は常に言葉数の少ないブラックボックスの中で端を発し、むしろ女をたらし込んだ手管を微細に渡って説明することなど野暮極まりないとされる。しかしやがて、ホ・ジノの童貞たちは決定の実感に焦がれ始め行動を飛躍させることになります。愛は自分の意思とは離れたところから始まった。けれども、自分の決意によって破綻させることはできる。彼らはそう考えるのです。




春の日は過ぎゆく』のイ・ヨンエは、けっきょく自分の属性主義によって童貞に惹かれ、かつその愛を破綻に導きました。彼女は音楽評論家のリア充という属性に今度は惹かれてしまうのですから、恋が破綻する最初期の段階においては、童貞がその決定に荷担してるわけではありません。ここで童貞を決定者としておかなかった理由は後々検討しますが、属性主義で何気なく始まった愛は、その破綻に至るや、もはや属性主義を取り得ないゆえに、執拗な段階を踏み始めます。あるいは、ヨンエの属性主義をむしろ利用して、童貞が初めて執り行う決定に正当性を与えようとする。童貞という属性を愛し、転じてリア充という属性を愛し、そうしてまた愛の矛先を童貞へと向けたとき、彼女の造形はもはや空洞化し人格を失っています。属性主義が自分の童貞性ではなく、実は女の人格を貶めていたと知った童貞は、寄りを戻そうと彼女から提案されたとき、この愛を終わらせる決定を下します。寄りを戻したくとも、人格を失ったものへ愛を差し向けることはできません。



そもそも童貞という属性ゆえに愛されること自体がどこか間違っているのですから、童貞の決意は行為の実感であるとともに、語り手の欲望の照れ隠しだったとも解釈できるでしょう。けれども、そこから新たな疑念も生じるのです。離別を決意した男はもはや童貞の憑き物がとれたような顔をしている。並木道で立ち去ってゆく女に背を向けた童貞は、思い返したかのように振り返り、目の合った彼女へ再び別れの挨拶を送る。よくある場面ですが、しかし何かが違う。そしてその違和感の正体が判明したとき、童貞はソフトランディングどころか大気圏を突破し、内宇宙の遙か彼方へ旅立ったことをわれわれは知ります。



問題の場面を振り返りましょう。ここでは被写界深度の浅い画面構成が、悲嘆と未練のスパイラルを経つつ決意に至る童貞の顔芸を追い続け、立ち去りつつあるヨンエはボケ足の隅に追いやられます。童貞が振り返り別離を告げるときも、彼女にピンが送られることは決してありません。ボケ足の中で匿名性を保ちほとんど人影でしかなくなったヨンエと挨拶を交わす強烈な主観性が、成長ではなくむしろ閉塞という事態を匂わせるのです。



愛が容易く減衰しないとしたら、恋慕の対象が人格のまとまりを保てなくなったことで行き場を失ったそれはどこへ向かうのか。ラスト、河原の童貞は恍惚として女の鼻歌に耳を傾けている。女を回顧したのではなく、失恋をした自分に酔い痴れている。愛は自分へ向かう他なかったのでした。



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もともと属性主義は、受け属性を余儀なくされる童貞の内なる願望だったはずです。ところが属性主義が愛の信憑性を損ない、童貞が決意の実感を欲すると、属性主義と童貞の不可分な関係は露呈し、亀裂を来します。意思決定の主体を易々と担えるのならば、そもそも童貞という属性が備わるはずはありません。ヨンエが人格を失うことで愛が行き場をなくした話と解すれば、『春の日は過ぎゆく』の童貞が決意の実感を得られたかどうかは怪しい。かかる童貞の愛の困難はやがて、決定の主体を避けながらも行為の充実と実感のあるような振る舞いを童貞に要請します。




『ハピネス』は、属性主義によって自動化し人格を失ったヨンエの造形を今度は童貞の方へ移植しようとする無謀な試みでした。男は恋慕した女の感化によって童貞へ変貌し、また元カノに感化されるままリア充へと回帰し、そして再び童貞へと身を崩します。そこでは恋愛の破綻はもはや形式先行であって、決意を実証するために愛は壊されるのではなく、愛は破綻したのだから決意はあったとされている。しかも男は属性主義という代謝経路に沿って愛を壊したのだから、決断を担うことはなく童貞性を保存できるのです。