『空白』(2021)

『ばしゃ馬さんとビッグマウス』(2013年)がそうだった。不安になるほど人物の類型化が過ぎる。古田新太寺島しのぶもマンガのような人々である。彼らについては、さすがに類型性を留保する描写はある。“啓蒙”聖人の寺島は鈍臭いボランティア仲間には癇癪を起こしてしまう。


すごいのはマスメディアの造形だろう。いわゆる“マスゴミ”である。本当にマンガのような“マスゴミ”である。彼らには何の留保もなく、受け手の憎悪を一身に集めるよう造形されている。


基本的には方向性が見えない話である。古田は娘の死に何か裏があると思い行動している。受け手には田畑智子によって早々に何の裏もないと明かされている。最後に真相がわかる教科書的な作りになっていない。受け手には自明の件に執着するのは徒労でエンタメを毀損していると思う。筋を盛り上げるのは別の要素である。


古田も寺島もマスメディアも何でもできる人たちだ。本作中にあって類型の感じをもたすのは、完成された人間の振る舞いなのだろう。三者とも憎悪を誘ってやまない。寺島ならばその”啓蒙”が我慢ならぬ。本作のエンタメの骨子は、この三人が相互に憎み合う点にある。古田が、松坂桃李ばかりでなくマスメディアや寺島に食ってかかる。松坂の視点からすれば事態は『三大怪獣 地球最大の決戦』にほかならぬ。古田というゴジラをいかにキングギドラへ誘導するか。


しかしながらジャンル性を脱するためには、古田そのものの獣性を抑制せねばならなくなる。藤原季節がマスメディアを排撃して、古田と間接的に連帯する。マスメディアの類型性が意味をもってくる。娘を亡くした片岡礼子が作中最強のサイコ発揮する。サイコの階層構造が出来上がり、古田がその中に格納される。藤原と片岡によって古田は相対化される。


だがそれでも限界がある。いずれにせよ古田は強者である。古田がサイコを脱したとしても、このサイコを訓育するためにどれだけの死体が要るのか、という話になりかねない。松坂や古田娘や片岡娘といった弱者が淘汰されただけであり、これでは『ダーウィンが来た!』と変わらない。他方、動物観察のような第三者視点は、空間の共有を以て古田と娘の連帯を表現している。ふたりはかつて同じ雲を見ていたのだ。