『散歩する侵略者』(2017)

 スコセッシの『沈黙』(2016)は一種のグローバリゼーション映画であろう。その辺の村の爺様が俺よりもよほど流ちょうに英語をしゃべってムカつかせてくれる。村娘の小松菜奈もとうぜんしゃべる。彼女だけは発声が稚拙になってしまうのだが、これがかえって思慕を加速させる。キュウリを貪るアンドリュー・ガーフィールドをニッコニコで見守る小松もたまらない。
 こうして小松菜奈への思慕を募らせる昨今であったが、先日『WOOD JOB! 〜神去なあなあ日常〜』(2014)を鑑賞したところ、長澤まさみへの往年の思慕が蘇ってしまった。急遽、長澤目当てで『散歩する侵略者』を見ることにしたのだった。
 女優としての長澤まさみは難物である。長澤は自分が美人であることを知っている。キャラクター・アクターならぬ長澤はこの自意識を統制できず、しばしば不自然な媚態を来してしまう。セカチュウの「さくさくぅ~」、『海街diary』の「ビールビールゥ~」である。演出家に長澤の統制する力量がないと、つまり性欲に負けてしまうとたちまち長澤は軽躁して媚びを売り始める。『海街diary』などは殊に意味不明で、長澤の初出では眠れる彼女の四肢をねっとりとカメラが這う。この場面は本筋と全く関連を持たない。しかも『君の名は』がこの場面を更に意味なく踏襲するという謎の尾びれが付いた。
 長澤がヒロインである以上、『散歩する侵略者』も長澤の軽躁と向かい合わねばならぬ。WOOD JOBはキャラ造形の枠でガチガチに長澤の演技を拘束した。『散歩する侵略者』は長澤の軽躁を敢えて抑えない。軽躁が出てもそれが媚態にならない状況を作る。長澤は変えられないが環境は作為できると考えたのである。
 『散歩する侵略者』は長澤の人間性の限界を試す話である。松田龍平は長澤の夫である。この人は例によってサイコパスで色々な蛮行に走る。松田の暴走のたびに長澤は夫を見捨てようと決意するが、彼女は基本的に世話焼きなので見捨てられない。今度こそは放置すると決意したところで体の方が言うことを聞かず、松田を捜しに出てしまう。この世話焼き属性に引きずられるとき長澤は「もう~」「いや~」等々と媚びの躁声を上げるのだ。この映画はあの媚びが困惑と代替すると発見したといってよい。
 松田と長谷川博己の対比になれば、本作はサイコに天然をぶつけてみる実験映画の様相を呈すだろう。どちらがよりサイコかその階梯を競い、これに長澤が巻き込まれ悲喜交々である。サイコの階梯の頂点に君臨するのは東出昌大である。うっすらと微笑を湛える牧師東出は、マンガのようなそのサイコ振りで本作の喜劇性を加速させる。本作はもともと、宇宙人松田が侵略の尖兵として地球を彷徨う話で、松田は人間から概念を奪って学習を続けていた。東出からは愛の概念を奪おうと試みるが、東出がサイコ過ぎて断念してしまう。物語の結論はここですでに下されているが、その後、宇宙人松田は別の方法で愛の概念を知ってしまい、侵略ができなくなる。それがオチである。
 このヒューマニズムに含羞がないとすれば余程の厚顔であろう。映画の作者にはその自覚が窺える。愛を覚えた宇宙人松田には従来の景色も違って見える。感嘆の声を上げる松田。しかし悲しいかな演じるのは松田龍平であり、相変わらずの棒読みライクで感激して見せるから、人を莫迦にしているとしか言いようがない。黒沢清通常運転といえばそれまでだが、原作のヒューマニズムは留保された感がある。