ロバート・B・パーカー『レイチェル・ウォレスを捜せ』

レイチェル・ウォレスを捜せ (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ) 読者がスペンサーシリーズに期待するのは啓発ではなくマチズモの肯定だろう。本作ではフェミニズムの運動家であるレズビアンがスペンサーのマチズモに屈服するのであるが、単なる屈服ではただのポルノになってしまう。いずれにせよポルノには違いがないのであるが、出来レースが過ぎてはマチズモの称揚を享しめない。屈服の有様にも工夫が要る。
 物語はまずマチズモの定義づけから入る。
 護衛のスペンサーを伴って運動家は講演会場に赴く。抗議のピケ隊が彼女を中へ入れない。スペンサーは警官に助力を請う。警官はニヤニヤするばかりで何もしない。ところが、ピケ隊のリーダーが警官を脅してしまう。「自分は署長の友人だ」とやってしまう。警官は激昂してスペンサーの肩を持つ。
 物語は、警官の具体的な行動を通じてマチズモとは何かと定義する。それは一種の意気地といってよい。運動家は警官に現われたそのマチズモを男性優位のパロディと評する。彼女はマチズモから男性をサルベージしようとしている。スペンサーに言わせればパロディではなく本物である。本物であるから解放にならない。意気地を立てるほかに安らぐ手立てがない。”自然”がそのように人間を導いているからだ。二人の意見は合うはずがないのだが、運動家自身が意気地としてのマチズモに感染してしまうイベントが用意される。
 運動家は新著についてインタビューを受ける。本は企業や州政府の腐敗を話題としている。女性インタビュアーはレズビアンのセックスについて興味本位の質問しかしてこない。
 帰りの車中で運動家は肩を震わせる。見世物になった気分だと嘆く。ここでスペンサーのマチズモが「あんなやつらに負けちゃだめだ」と彼女を鼓舞して、マチズモが二人を連帯させるのである。