『ばしゃ馬さんとビッグマウス』(2013)

 この話の麻生久美子は決して不快な人物ではないが、時折、その言動に違和感を覚えるのである。
 制作会社を訪れた麻生が売れっ子ライターと遭遇する場面がある。
 十年前、東中野のシナリオスクールで麻生はそのライターと一緒だったことがある。彼女は「〇〇君、最近すごいね~」云々と声をかける。麻生を覚えていない脚本家は戸惑うばかりだ。わたしも戸惑った。十年間、交際の途絶えしかも立場が全く異なってしまった相手に対する声のかけ方ではない。そう見えてしまったのだ。麻生は一次すら通ったことのない脚本家志望である。それが「すごいね」という上から目線を躊躇なく振るえてしまう。
 自分の記憶は明瞭だが相手は覚えてもいない。これで麻生の現状のみじめさを叙述する意図はわかる。しかし、麻生の面の皮までも作者の意図としてとっていいのかどうか。麻生の発言を受けた脚本家の戸惑いにその含みがないわけでもない。
 麻生の面の皮を指摘する場面は確かに出てくる。
 老人介護を次作の題材にした麻生は取材のために施設で働く元カレを訪ねる。この時点で少し違和感があって、別れた後も交渉があったのならともかく、どうやらそうでもない間柄で取材のために別れた男を頼る。これは男としては少し不快なのではないか。それを察知できるのなら、取材する当たってはあえて元カレを避けるのではないか。
 おかしなことは他にも出てくる。
 元カレは役者志望であった。今は夢破れて施設で働いている。「もう未練はない」と語る男に「諦念できてすごい」と心から嘆じる麻生は少しサイコじみている。諦念できるはずがないことは自明である。たとえ諦念していたとしても、そんなことを言うのは傷をえぐるようなものだ。麻生にはそれがわからない。
 この場面の麻生の面の皮を作者は自覚している。元カレが後に麻生を非難する。諦念などできるはずがないと。介護士と老人が和やかに交流するドラマを麻生は書く。元カレはシナリオを読んで不快になる。自分は老人に苛立つ。待遇は不満である。なにがハートフルだと。麻生の面の皮が彼女の脚本から深みを奪っているとされ、作者が面の皮を捕捉していると判明する。
 が、それでもなお変なのだ。
 元カレは実は諦念できてなかったと判明するのはよいとして、その判明の仕方がやや劇的な嫌いがあって、諦念してなかった事実を知って受け手が驚くことを前提としているような語り口に見える。しかしそれは最初から見え見えであるから、変な感じが出てしまう。
 麻生は夢を断念して実家に帰る。結末に救いはない。これは何なのだろうか。作者は作者である時点で夢のかなった人間である。それが夢破れた人間の話を作る。どれだけ面の皮が厚ければこれだけ醜悪なことをやれるのか。負け犬の心理など捕捉できるはずもないから、自覚と天然がないまぜとなる。これほど痛切な事態はないのだが、悲酸がなかなか伝わらない。別に実家に帰っても旅館手伝いながらこつこつシナリオ書けばいいんじゃねえか、と思う。
 麻生は世故に長ける人として語られる。シナリオスクールに講師として招かれた監督に躊躇なくアプローチをかける。売れっ子ライターや元カノへの態度からわかるように彼女は基本的に情実主義者であり、この点についても作者には自覚がある。そして彼女の甲斐性に不快なものはないのだが、ただ、こういう人ならば公募ではなく当の昔に制作会社に入ってコネづくりしているのではないか。こう思わせるから、悲酸が見えてこないのである。