モスクワ4Pz - アドバンスド大戦略とタイフーン作戦の実際 

 モスクワ4pzで迂回や包囲を試みていると、しみじみと戦争をしているような気分になる。わたしは必ずしも熱心な大戦略ファンではないのだが、現代戦の大戦略ファミコンウォーズでは、迂回・包囲がこれほど明瞭には表現されないのではないか。この辺は史実に準拠したボドゲと同様、アドバンスド大戦略の良きところである。
 モスクワ4pzとはタイフーン作戦終盤を扱ったマップで、4pzはモスクワに突入せんとする第4装甲軍のことである。マップを一瞥してウンザリするのは、モスクワ防衛線に並ぶトーチカの群で、ここを突破できたとしてもクレムリン手前ではモスクワ川を渡河せねばならない。これはもう考えただけで嫌になるので、防衛線を北に迂回することになる。カリーニン(現ドヴェリ)を落とし、そこからヴォルガを渡りモスクワ運河に沿って南下して裏手からモスクワに突入するのである。

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 史実通りの12月頭に天候ONでこの迂回を試みると、まさに史実通りの結果にしかならないだろう。天候OFFではこの方法で容易にモスクワは陥落した。
 アドバンスド大戦略のマップでは南下してクリャージマ川を渡ったところで西にターンしてモスクワ方面に向かうことになる。このターンに、ああ包囲したという感じが出て高揚した。ただ、モスクワの西には今一つ生産首都がある。モスクワを落としても、こちらに遷都されると包囲が完成しない。モスクワ突入の前にあらかじめ空挺部隊等でここを占拠する必要がある。
 遷都というルールは一見して不条理なのだが、限られたマップとユニット数で包囲を表現するための工夫だと解せる。
 佐々木戦記に今井亀治郎という連隊長が登場する。シンガポールで辻ーんともめた挙句に華中の田舎連隊に飛ばされてきた人で、赴任草々、彼の地での経験から迂回・包囲を言い立てる。連隊の作戦主任の佐々木は納得がいかない。包囲は攻勢してくる相手にならば成立するもので、国府軍はすぐに撤退するから包囲の輪を抜けてしまう。つまり後退する相手に並走しつつ迂回して包囲を完成させるには、一つの手段として、後方に迅速に進出して退路を絶てるような空挺部隊を別に投入する等の措置が要る。
 モスクワ4Pzは、前もって占拠すべき首都を後方に置くことで、包囲のための遮断を表現しているのだ。

 実際のタイフーン作戦はどう経過したのだろうか。戦況図を眺めると、第4装甲軍ではなく第3装甲軍が同じルートをたどり、カリーニンを占拠したところで力尽きている*1

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 第4装甲軍は一部部隊が、カリーニンまで迂回することなくモスクワ運河を渡り、モスクワ防衛網の北端をかすったところで力尽きている。カリーニンとモスクワ防衛網の間に隙があるのだが、アドバンスド大戦略の方はカリーニンからモスクワまでトーチカが並びこれを迂回するにはカリーニンまで北進せねばならない。
 ここで現実とゲームの尺度の違いに気づかされる。
 モスクワとカリーニンの南を流れるヴォルガの間はおおよそ100km。史実ではそこに7個師団くらいが突っ込む。ゲームの方は戦車中隊が12個程度だから、大きめの連隊戦闘団くらいで大隊に直すと2~3個くらいか。1個大隊がカバーできる戦線は5kmというからゲームの縮尺は10km強、つまり現実の10分の1である。
 しかしそれでも、全く暗かったモスクワの地誌が何となく見えてくる。あるいは場所を置き換えた空想がはかどる。コロネット作戦で九十九里と湘南に上陸したとしても、荒川と多摩川が面倒だ。迂回しようにも秩父が邪魔である等々。鎌倉に上陸して多摩川縁で迎撃されたゴジラはコロネット作戦の米軍だったんだな。

 第4装甲軍がモスクワ運河を越えた日が11月28日。これもおもしろい。
 太平洋側でも東郷乙案から米側の暫定協定案を経てハルノートに至る瀬戸際の日々で、暫定協定案が一旦決定したのが25日。それがひっくり返ってハルノートになったのが翌26日である。
 暫定協定案というのは南部仏印進駐の前に針を戻す休戦案で、南部仏印から日本が撤収する代わりに石油禁輸の緩和を提案している。これが日本に提示される目前にルーズベルトが翻意してハルノートに代わってしまって開戦になるのだが、25日と26日の間に何が起こったのか。イギリスや中国が反対したとか諸説がある内に、北進を嫌がっていたルーズベルトの心理に着目した説がある。25日の晩にルーズベルトが恐慌を来したという。理屈はこうである。
 日米交渉が妥結して中国の泥沼から抜け出されると北進されかねない。北進するとソ連滅亡、ヒトラーをだれも止められなくなる。
 東郷乙案から暫定協定案に至る日々、東部戦線では第4装甲軍がモスクワの手前まで来ていたわけで、25日の晩、報告を受けたルーズベルトがテンパった、という話である。

*1:山崎雅弘「モスクワ攻防戦」『歴史群像』2004年8月号, 45頁.