小説『永遠のミドリ』

1

 ミドリは少年のような女だった。
 いや、少年という類型に入れ込むには少し含みがあるというか、あるいは陰湿な少年らしさというか、これでは矛盾めく聞こえるのだが。
 豪奢な口をしていた。
 不機嫌な顔をしている。
 考え事をしながら流し目をやる癖があって、瞳孔が端に寄りがちで眼球の白が目立つ。
 表情筋が溌剌とは動かない人で、何か邪な考えが浮かぶと、にま~っと大きな口が開け放たれる感じになる。表情の動作に粘りがあり、それが湿った印象を人に与える。
 性格も湿っていたというか、とりあえず手癖が悪かった。
 地稽古になればミドリの剣尖がわたしの皮の先っぽを掠めること度々だった。
 稽古の帰りには権高な笑顔で挑発してくる。
 「今日は冴えてたでしょう? 君の冷や汗が手に取るようにわかったよ。その皮が散るのも時間の問題だな」
 「なあに、皮先に痒みを覚えたから、敢えて晒したのだ」
 「この下劣! 美少女の神聖なる剣尖をよくも。責任取れ。いつかその皮叩き切ってやる」
 責任を取れとは?
 ただの言葉の勢いで、深い意味などないのだ。当時のわたしにもそれはわかっていた。しかし、夢見る童貞の悲しさで、やはり含みがあると信じたくもある。今、回想していても鼻腔は自然と膨らんでしまう。
 ミドリは野真のことが好きだった。
 野真の姿を認めると、わたしを打ち捨て子犬のように駆け寄り纏わりつき「ひどいよ仙太郎の奴。汚らしい皮先でこの美少女を嬲り者に!」云々とメス顔で談笑する。
 野真も穏やかに笑っていた。
 わたしには何一つ野真に及ぶところがない。

2

 野真は美しい男だった。
 五度目の天覧試合のとき、責め苛まれ軋みを上げるその肉体の官能美は、居並ぶ陪観の顕官らを戦慄させた。
 野真は強い。天覧試合にも指定選士で出場した。
 相手は古柴俊夫といって、陸式宇宙剣術の教官である。宇宙新心流柔術八段。猪顔に髭面の怪物で手癖が悪い衆道家であった。
 後年、高知の歩二三六の連隊長を拝命すると、古柴は士官団の青年たちを悉く毒牙にかけた。
 野真と古柴の試合も一方的だった。
 古柴は縦横に打ち込み、その衝波を以て上下前後から野真を責め立て、峻烈な剣さばきで野真を床に這わせると、その四肢に覆いかぶさり事故を装い口吻を奪いに奪った。
 狭い済寧館には千名もの陪観が詰め込まれている。選士と陪観の距離は近い。野真の喘ぎがはっきりと耳に届く。
 わたしは控えの溜まりにいたのだが、その様子を例えるなら、強制野姦に黒山の人だかりである。しかもそれが天覧の栄に浴している。
 わたしは南面の玉座を窺った。
 台座の左右には格子窓がある。そこから採光しているから、逆行気味になって御上の表情は窺えないのだが、野獣に花花しく劫掠される美青年の向こうに後光指す御上という、前衛宗教画のような禍々しさだった。

3

 最初から野真の躰が狙われたのだろう。剣術家で野真の美貌は知らぬ者はいなかった。
 天覧試合が終わると陸軍戸山学校から話がきて、野真は甲種学生として剣術科に入ることになった。
 戸山学校は衆道の巣窟だった。教官団はつねに美青年の血に飢えていた。衆道ならずして生きて卒業できたものは皆無だった。
 野真の親父さんは断りたかったろう。
 帝都四大道場の筆頭、野真道場の跡取りだ。入校したら野真家の血はそこで絶える。しかし、野真は周囲の憂慮を余所に嬉々として、とはいえないまでも、割合淡々と戸山へ行ってしまった。
 野真はミドリのプライドをいたく傷つけた。
 ミドリよりも剣を選んだ。
 というより、そもそもミドリは選択肢に入っていたのか。
 わたしはミドリを慰めた。野真はすでに天覧試合で衆道の味を占めたのであり、どのみち手遅れだったのだ。何者かが戸山に引きずり込むべく、あの試合は仕組まれたのだ。
 わたしの顔面は緩みかかっていた。
 野真が去った今、わたしにもチャンスが到来した。
 わたしにはわからなかったのだった。男に去られた女が自尊心を保つために、劣った男の好意を却滅するあの乙女心を。
 ミドリは二度と絡んでこなくなった。

4

 野真が戸山学校の衆道家の罠に落ちた。この推測は半分は正しかったのだが、話にはまだ裏がある。
 野真が去った後、都新聞花柳欄の放った一報が政界を揺るがせた。
 長躯の窈窕たるメイドに伴われた山先卓が築地橋のたもとで目撃されたのである。
 山先卓は通称エロ卓といって政界随一の衆道家であった。
 それがメイドを連れていたのだから、何たる転向かと騒がれたのだが、続報がさらに物議を醸した。
 メイドは野真の成れの果てだった。
 後年、都新聞の伊原から全容は聞いた。
 野真を手に入れるべく山先が糸を引いていた。
 山先は政友会陸軍族の首領である。
 陸軍には不幸なことに、丁度この時、某事変に絡む武力行使特措法の延長が上程されていた。陸相の田中一寿を柳橋の柳光亭に呼びつけた山先は特措法を人質に取り、人のいい田中を散々泣かせた。衆院陸軍分科会の委員長も筆頭理事も山先の子分である。法案棚上の脅しに田中は屈した形となった。
 余談だが、この破廉恥は教育総監宮下の通報で陸軍長老Tにバレて、謹直で鳴らすTに田中は油を搾られた。

5

 事件はここで終わるはずだったが、事はやがて山先の思惑を超えてくる。
 しかし今はミドリの話に戻ろう。
 野真がメイドに堕ちた話を知ったミドリは、彼を衆道から奪回する機会をそこに見たらしい。
 野真はメイドである
 野真は衆道である。同性愛である。
 つまりミドリがメイドに扮したら、同じメイドである野真とミドリの間に同性愛が仮構され、野真は感応しうる。
 将来、ミドリは娘のユカリを同じ目に遭わせることになるが、それはともかく、ミドリは野真と交接することはできた。しかし、それだけだった。
 野真は自分を愛している。
 ミドリの思考の前提には絶えずそれがあった。
 衆道家の手管で野真は奪われたのだ。
 だが、最初から野真に気はなかったとしたら。
 交接を試みて、ミドリはそれに気づかされた。あるいは最初から薄々と知っていた。行動することでそれを拒もうとしていた。
 ミドリが革命を志したのは、野真を廃人メイドにした巨悪に義憤を抱いたからだ。しかし、本当のところ、野真に好意がなかったことを否定したいがために、革命に身を投じたのではなかったか。

6

 ミドリが道場に姿を見せなくなってどのくらい経っていたか。
 稽古の帰りに面影橋を歩いていると、目白台の方から尋常の数ではないモーターサイレンの喧騒が響いてきた。
 胸騒ぎがした。
 神田川を越えて坂を上っていくと、高田老松町一帯が虚空としかいいようのない影に覆われている。
 京極子爵家、つまりミドリの家がそこにある。
 膨張しつつある虚空から逃げようとする人だかりをかき分けていると、京極家の家令の爺が血相を変えて飛んできた。
 「ヒメさまが...ご自分の痔核に飲み込まれてしまわれた!」
 例の、コミンテルン極東部のお家芸、肛門生体地雷である。肛姦を通じて野真はミドリに生体地雷を敷設したのだった。
 膨張して触手化した痔核にミドリは飲み込まれた。自分が自分を飲み込んで、宇宙に穴が開いた。どこまで広がるかわからない。まさか、宇宙全体を飲み込むことはあるまいが。
 野真には最初からコミンテルンの息がかかっていたのか。
 そんなことはないだろう。衆道化の過程でつけ込まれたのだろう。野真もミドリも未来の恒星間戦略兵器と目されていた。始末をつけたいのは確かだろう。

7

 前日の晩、わたしは夢のなかでミドリと出会っていた。
 そのミドリは不機嫌そうに弁舌をふるっていた。
 「もう君のことはあきらめた。こんなにも美少女を待たせるなんて、夢見る童貞にもほどがある!」
 女の険しい唇と眉目に、わたしの心は安らいだ。
 夢から覚めた時、ようやく女の真意を知ったよろこびで、わたしの唇には微笑が浮かび上がっていた。
 それから数年にわたり、そのどこにもいないミドリはわたしに勇気を与え続けることになる。
 これが最初だった。
 勇気の泉の端緒だった。
 (もうこれ以上、人を好きになることはないだろう)
 それを知ったわたしは抜刀して虚空に飛び込んだ。
 虚空は、虚空という割に、憔悴した意識波の音楽で騒めいていた
 これほど密度の高い衝波に満ちた戦術様相に放り込まれては、いくら掃引してもわたしの分解能ではミドリの心の在処がわからない。
 飽和する意識波の奔流に漂い、わたしの意識は、紗がかかったように希薄となり、環境媒質に拡散し始めた。
 これでは間もなく自分を失ってしまう。
 堪らずわたしは愛を放言した。
 わたしは彼女の喜びも悲しみもみな知っている。ずっと見ていた。ずっと想っていた。
 君に知ってほしかった。君の剣尖がわたしの皮を掠めた時、どれだけ胸が高鳴ったか。君の傍にいて、どれだけ生きてることがうれしかったか。

8

 もしかしたら最初から自覚があったのではないか。ミドリとうまくいくはずがないと。針山のようなシュトレーンヒルで、鉄が肉をつぶす湿った音楽に身を委ねながらミドリを想った時、索然とした諦めがわたしの心を領していた。
 ミドリは本当に野真のことが好きだった。
 わたしとミドリでは負け犬が傷をなめ合うようなものだった。付き合ってはみたものの、その顛末はすでにご高聴の通りである。
 ミドリがモスクワへ去った後、一度だけ再会する機会があった。
 あれはとんだ迷惑だった。
 当時、神楽坂のプランタンに篠塚アラシ酷似のメイド某が籍を置いていた。わたしの剣友でありメイド仲間である佐竹がこの某を気に入り、プランタンに出入りしていた。佐竹は黒岩剣術道場の助教である。
 メイド某は女装であり、生えていた。
 それを知ると佐竹の愛慕は止まらなくなり、ついには道場の金を横領した。
 わたしには中島という書生がいた。中島は黒岩道場の美少年某を愛慕していた。ところが美少年某は助教の佐竹を愛慕していた。佐竹の方はメイド某に狂うから美少年某の秋波が届かない。
 美少年某は佐竹の窮状を知ると中島に泣きつく。
 中島は本郷の新人会に出入りする札付きだった。折よく上海のコミンテルンから使者が戻ってきた。使者は党の再建資金を預かっていた。中島はそれを頂戴した。
 中島としては、これで万事収まったつもりだった。警察沙汰にできない金である。ところがコミンテルンはミドリを送り込んできた。再建ビューローに送金するたびに使い込まれ、党の復興がまるで進まない。事ここに及び、彼らは決断したのである。
 こうなれば殺人マシンに狙われるようなもので、中島がわたしに泣きついてきた次第だった。

9

 屋敷に来寇したミドリは、わたしの知っていたミドリではなく、ミドリの残骸というべき代物だった。
 そのミドリには自意識がない。
 彼女の人格は、血と肉の因果マップに刻まれた記憶によって仮現し構成された擬制だった。
 自意識は人を時間分解能の牢獄に押しとどめる軛である。しかし自意識がなければ、人は自分を対象化し肉体の建制を構成し得ない。
 血と肉の因果マップが自意識なきミドリを肉体の建制に組み込んでいた。
 今や運動を阻害する連想連鎖から免れたミドリは時間圧を超越していた。
 恒星間戦略兵器の極限であり最期の姿である。
 わたしにはまだ自意識が残っている。ミドリと剣を交えれば防戦の一方だ。
 わたしの振り下ろした白刃の衝波がさざ波のように女の体の中に伝わる。彼女の体腔は曲折して衝波を織りあげ、衝波の指向を巻き戻した。衝波はわたしを逆襲し、わたしの重心を崩しにかかる。
 あの頃からそうだった。いつも君の剣尖がわたしの皮先を掠めていた。
 わたしは斬殺を試みる肉体の軋みを懐かしんでいた。感ぜられるのは、白刃の光と風ばかりになった。
 それは官能だった。
 四肢の建制は今や自律し、自意識の負担を免れ澄明になったわたしに、女の肉体の深層から発せられる、意識の最後の残滓が届き始めた。
 それは滅びかかっていたが、わたしはたしかに聞くことができた。
 ミドリは泣いていた。
 わたしは思い出した。どれほどこの女を想っていたかを。
 わたしは過去のわたしを称えた。おまえの愛したこの未練たらしい女は、おまえが思う通りのまたとない女だった。
 わたしはこれからもこの女を想い続けることだろう。
 (もう苦しまないでいい。もう受け入れていい)
 わたしはミドリの最後の意識に呼び掛けていた。
 「野真の奴、君のこと好きだっていってた。君を失うのがつらいって」
 病が個性を奪うように、人間は極限に至ると一定の反応しかできなくなる。
 燃えるようなミドリの瞳がにわかに哀調を帯びた。
 その唇にはリノ・ヴァンチュラに看取られるアラン・ドロンの微笑が現れていた。
 「よせやい」
 ミドリに棄てられた晩、彼女の置手紙にはただ一言こう記されていた。
 『がんばって』
 どれだけ頑張れば赦されるのか。
 どれだけ頑張れば安らかになれるのか。
(了)