小説『春の愉楽を抱きしめる(前篇)』

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 国境の丘に残置された童貞特殊部隊は、来寇した赤軍義勇兵に重囲され全滅の秋を迎えようとしていた。数日に渡る殺し合いの間、数百トンの鉄塊に耐えてきた掩蓋陣地が地鳴とともに陥没したのだった。陣地直下に掘削された坑道が爆破されたのである。
 爆轟の圧力波で人形のように上空へ放たれた童貞たちは、やがて肉片となって地上に降下し、壕を自らの躰で埋め立てていった。
 陥没を免れた場所では、無数の鉄片に穿たれた童貞たちが幽鬼のように泥血に染まり、陣地の掩蓋部に思い思いの形で横臥していた。が、地表を鉄の輝きで満たした雲霞の如き軍勢を土煙の向こうに望見すると、遥か昔に衆道化した彼らは、武勇を発揮するまたとなき機会が訪れたと却って意気を盛んにした。黄色い叫声を上げて押し寄せる少年童貞兵らに、衆道の武勇を味わせてやろうと、次々と絶望的な暴勇を振るった。
 ある者は肉の山をかき分け、残存した銃座にたどり着くと、砂塵に透ける標的にブルーノの洗礼を浴びせ、予備陣地へ離脱を試みる戦友たちを支援した。後退した衆道たちは皆、数多のフルマントルによって肉を千切られ骨を砕かれていたが、ブルーノの銃声が消えると、最後の神話的な戦闘を決意した。量塊に還ろうとする肉体を虐使し、占拠された主陣地へ逆襲を試みたのだった。
 すでに実包は使い果たしていた。衆道たちは擲弾と白刃で主陣地を奪回し、壕を埋める僚友たちの肉塊を積み上げ胸墻とした。擲弾が尽きると、投げ込まれた擲弾を投げ返して抗戦し、最後には欠損したおのれの四肢には何の拘泥も見せず、少年童貞兵の喉笛に食いつき、愛慕者の腕の中で息絶える誉に浴していった。肉塊から掘り起こされた壕は、鮮血に染まる出来立ての肉塊にたちまち埋め尽くされ、再び機能を失った。方々で陰惨たる景物と化した彼らは、身を以て衆道愛の絆をこの地上に実証していった。
 戦争は終わった。
 かつて血と泥土に彩られ、地表に突き刺さった立木の残骸で針山のようになった丘に緑が戻った。
 男たちは丘の稜線を黙々と進んでいた。彼らは一様に険しい顔容を湛えていたが、目指す孔跡に近づくにつれ、みな安らぎに満たされていった。
 男たちは愛慕者の許へ帰ってきたのだ。

1

 英國皇帝の誕辰を祝う園遊会が催された。
 某男爵家御曹司重大事件で痛手を負った鎌倉仙太郎は蟄居の日々を送っていたが、あれから半年、流石に皆忘れたろうと楽観して英大使館に赴くと、庭先で貴族院茶話会の佞悪なる殿様たちに捕まって油を搾られた。
 殿様たちはいずれも悪名高い漁色家である。一通りの痛罵が終わった後には、自然、メイド話で気炎が上がる。しかし場を一層盛り上げたのは、政友会佐伯派のお家騒動であった。先年、河野の乱を乗り切ったばかりの松野栄太郎がまたしても窮地に陥ったのである。仇敵の窮状であるから、鎌倉仙太郎としては嬉々として話題に加わる他はない。
 事の始まりはこうである。
 河野派瓦解の後、佐伯派における松野栄太郎の権勢は留まるところを知らない。これが面白くない総理の佐伯が山先卓に接近したのだった。
 山先卓のことは先回触れた。
 通称エロ卓。山先派の領袖にて政友会陸軍族の元締め。手癖の悪い政界随一の衆道家である。
 対する松野栄太郎は政友会内務族の頭目である。陸軍と内務省犬猿の仲だ。当然このふたりは折り合いが悪い。それを見越して佐伯が山先と手を組んだのだった。
 談笑をしていた仙太郎は視界の隅に松野当人の姿を認める。
 右手に敷島を深々と挟み、左の親指をベストの落としに突っ込んだ松野は、池泉に架かる平橋の中央で立ち止まると、角の下がった口をおもむろに開き、敷島を咥え込んだ。憤懣やるかたない様子である。
 仙太郎は大喜びで声をかけた。
 「美事に飼い犬に手を噛まれましたなあ」
  松野は胸襟を開かない人である。相手の顔をまともに見ることがない。しかし声色には不思議と剽軽なところがある。その朗らかな声音で以て、他人事のように「なあに駄犬は処分されませう」というから、河野の乱で大やけどをした記憶の新しい仙太郎は怖気を震う。
 「おおこわ!」
 と恐怖交じりの嬌声を上げ、また変に手を出して火傷してはかなわぬと、早々に退散を図ろうとすれば今度は柱廊玄関で独逸貴族某に捕まった。欧州社交界にその名を轟かせる例のメイド基地外である。最初はやはりお家騒動の話題となったが、メイド話がそこに絡んできた。
 「貴君、ご存じか。モンマルトルに本〇翼酷似の娘が入ったのだ。さっそく昨夜見分に行ってみた。すごかったぞ。翼そのものだったわい」
 神楽坂のモンマルトルといえば山先派議員の屯するカッフェーである。この微妙な時期に近づきたくはないが、本〇翼となれば抗える人類などいまい。
 たちまち獣性の猛りが仙太郎の満腔に充溢する。
 「そいつはけしからん。成敗してやる!」
 独逸貴族某は鼻であしらう。
 「そうしてまた成敗されるわけだ」
 仙太郎は青筋を立てて咆哮した。
 「モチのロンよ!」

2

 と勢いに任せて、その足でモンマルトルに突撃したものの、これがなんとも微妙な顛末となった。
 確かに本〇翼である。いや、本〇翼過ぎるのである。
 美女を美女に相応しくない場所に置くと美女が低能に見てくる。これほどの本田なのに場末でメイドとは、よほどアレに違いない。そう思えてくるのである。どこかに隙がないと萎える。
 本〇翼の完全体を前にしてマゴマゴするばかりの初心な仙太郎だったが、動揺が収まってくると、本田の矯飾に底流する一脈の陰翳に気が付いた。
 この本田、動きにムラがある。
 仙太郎は長椅子を軋ませながらメイドの顔を覗き込んだ。
 「さては君、盲だな」
 その本田は「ご名答」というと、蒼ざめた口唇に寂しい頬笑みを浮べ仙太郎の許を去った。
 帰りの車中で、仙太郎はあの盲目の先輩のことを反芻していた。無意識にせよ、あの先輩の光なき眼が仙太郎の淪落を押しとどめたのではないか。
 (盲人を抱くとは如何なることなりや?)
 かつてナポリのメイド街で足萎えの見不転と寝たことがある。あれは、まるで春の愉楽を抱くようだった。
 しかし、仙太郎の感傷を余所に、この本〇翼こそ新たなる政変の呼び水となったのである。松野栄太郎と佐伯の抗争は叛逆が叛逆を呼ぶ展開となった。
 山先派七奉行の一人、田尻虎次郎は親分に劣らぬ漁色家として知られる。田尻は淫慾に促されるまま翼を丸抱えする。
 七奉行の筆頭、古河和夫にはこれが堪らない。同様に翼に懸想していた古河は負けじと言い寄る。翼はああ見えて(?)なかなかの淫奔者らしく、たちまち田尻に隠れて古河和夫と臭骸を共にするようになる。やがて翼と古河の密通を田尻が知るところとなり政変が勃発する。かねてから山先の後釜を狙っていた田尻は派内の反主流派を糾合し、山先と対立する松野栄太郎に接近。山先派は事実上分裂した。
 事件を埒外で観察していた鎌倉仙太郎は、本〇翼を忌避した己の野性の勘に暫し自惚れた。やはり自分とて学習するのである。そう何度も火傷するわけにはいかないのだ。

3

 こうして後ろ盾を失った総理の佐伯は屈辱の和睦を松野に強いられ、政界の秩序が一応の恢復を見た頃、仙太郎は珍しい客を迎えた。
 男は神田川憲一といって元々は上海憲兵隊の外事である。今回は東京の憲兵隊司令部に転属となって、赴任の挨拶に訪れたのだった。某男爵家御曹司重大事件で仙太郎は神田川の世話になっている。
 居間に通された神田川は、挨拶もそこそこに、奇妙なことを仙太郎に切り出した。
 「野真が帰ってきました」
 「野真って、野真直人のことか? しかし奴はモスクワで粛清された後、行方知れずだと聞いたが」
 「それが生きてたのですよ。先ごろ内閣嘱託の某が検挙されたでしょう。奴と交換で帰還したのです」
 仙太郎には話が見えない。かつての剣友、野真直人はコミンテルンに身を投じ、京極みどりの肛門を破壊した挙句、高田老松町一帯に大穴を空けて、モスクワに去ったのではないか。それがなぜ帰ってくるのか。
 当惑する仙太郎を一瞥するや、神田川は薄い嘲弄の笑いを陰気な口端に浮かべる。
 「陸軍の作戦だったのですよ」
 神田川は土俗的マキアヴェリズムの人である。仙太郎は彼と話すたびに思うのだが、こういう芝居がかった類の人は外事に向かいのではなかろうか。あるいは、そもそも芝居がからないと諜報畑には行かないのか。
 混乱する仙太郎を余所に神田川は話をつづけた。要は、反間として野真はモスクワに送り込まれたのである。コミンテルンの接近を契機に始まった作戦で、みどりの肛門破壊も反間作戦の一環であり峰打ちに終わるはずだった。ところが、みどりの暗黒面は予想外の広がりを湛えていた。かくして目白台は崩壊したのである。
 「じゃあ、粛清というのも?」
 「反間がバレて検挙されたんですな。そのあと、ノヴィポルトのグラーグに送られ処刑もされずに十年も収監。臭い話ですな」
 「思想教育されたと?」
 「洗浄が済むまでわれわれは野真を監視していた。ところが二週間前、野真は消息を絶った」
 「嫌な話だなあ」
 「もっと嫌な話がある。古柴支隊、通称”童貞特殊部隊”。覚えておいででしょう? 三渓口52高地で全滅した。野間がその残党どもと接触した形跡が」
 「野真と彼らにどんな接点が? ああ、そうか。古柴か」
 古柴俊夫。野間が戸山学校に在籍中、古柴は教官団の一人だった。あるいは、天覧試合で野真の口唇を強奪した男、といった方がよいのか。
 神田川はやや身を乗り出して陰湿な視線を仙太郎の強張った顔に這わせた。
 「そういうことです。心当たり、ないですかな?」
 「そういわれてもなあ」
 仙太郎は思い出していた。都新聞の伊原と遭遇した先日のことを。

4

 場所は日本橋の小松である。夕飯を喫しようと暖簾をくぐった仙太郎は客の中に伊原の姿を認め、これは厄介と退散を図るも手遅れ。むざむざと引きずり込まれた。
 嬉々として本〇翼の件を持ち出してきた伊原に仙太郎は渋々と応対する。
 「危うく焼け死ぬところだったが、今回は回避したんだ。君のところのネタになるような話はないよ」
 「いや、それが、ユカリの姫様も件のメイドにどうやらお熱のようで」
 「なんたることだ」
 伊原曰く。前川侯爵家令嬢ユカリがお忍びでモンマルトルに入店。本〇翼を所望したという。しかし例の政争で本田はすでに退店していた。
 仙太郎は天を仰いだ。
 「あの姫様にも困ったものだ。またメイド狂いが再発したのか。そこまで肛姦がお気に召したのか」
 「なんでメイド狂いが肛姦になるのです?」
 「そうだな。なぜだろう?」
 しかしながら騒動に懲りたのか、本田はメイドから足を洗ったとされるから、今回のユカリの乱心は未遂に終わりそうである。落ち着きを取り戻した仙太郎は「何処かに初心なメイドはおらんかね?」と軽口をたたき始める。
 伊原の目がぎらついた。
 「本〇翼の後釜がまたすごい。篠塚アラシ酷似メイド! また一騒動ありそうですな」
 仙太郎、ヤケクソの空笑いを放つ。
 「神はあらゆるかたちで、御業を示したもうなあ」
 半ば冗談のこの予言は当たってしまったのだった。事は起こってしまったのだった。今度は篠塚アラシを巡って、山先卓と袂を分かった反主流派が割れたのである。反反主流派は山先と和解して再合流。こうなると山先と同盟する総理の佐伯は息を吹き返す。山先派反主流派と手を組む松野栄太郎は再び窮地に立たされたのだった。

5

 内藤新宿の屋敷で電話を受けた前川ユカリは、暫し沈黙の続く電話口の向こうに未だ知らぬ実父の存在を確信した。
 屋敷の大木戸門を出てお付を巻いたユカリは、太宗寺の裏で男と合流する。行確員を警戒する男はユカリを連れて省線に乗ると、点検要領を忠実になぞり、安全を確信するまで幾度も車輛を乗り換えた。
 二人は池袋で降りた。
 西口を出て師範学校の沿道に至ると、男はやってきたグレーのセイチェントにユカリを拾わせた。
 護国寺から五号線に乗った車は箱崎と辰巳を経由して湾岸道路に降りる。新木場を右折して南下し若洲橋を渡ると視界が開ける。
 白い地表に電柱が列をなし、消失点に向かって後退している。暗灰色の堤防がその向こうの水平線を縁取っている。カモジグサやイヌムギに端々を彩られた地表の方々には赤錆びた杭が突き出し、電柱の規則正しい配列が構築した遠近感を搔き乱している。
 降車したユカリはガードパイプを越えて埋立地に降り立った。廃土を覆う砂利の不快な感触が靴底から伝わってきた。
 ユカリは海に向かって歩き始める。堤防の解像が鮮明になってくると、地表を穿つ杭に交じって、鉄紺のエプロンドレスを身に纏う長躯のメイドの姿が見えてくる。
 少女はメイドと対峙した。
 風音と潮騒に交じって液冷ディーゼルの唸りが微かに聞こえてきた。
 メイドは踵を返した。
 ユカリは抜刀して制止の声を上げた。
 「止まりなさい!」
 当人は榊原〇子の声を出したつもりだったが、どう聞いても米澤円だった。
 クーガーの車列がガードパイプを突き破って廃土に侵入し、ケプラーとセラミックで全身を着飾った習志野衆道家たちを吐き出した。
 ユカリは動くことができない。堤防の向こうに消えるメイドを見送るばかりである。
 立ち籠る砂塵が晴れた。少女の傍には二人の男が立っている。
 メイドを追って堤防へ駆ける衆道家たちを眺めながら、神田川憲一が竹中〇人声で呟く。
 「やはり娘か」
 仙太郎はその喜劇寸前の声色に呼応して、叫び出さんばかりになった。
 「あれが野真直人なのか? どうみても本〇翼だぞ」
 「グラーグの衆道家たち手管さ。奴は完璧な本〇翼に改造された。それがどんなに過酷だったか。御前、貴方もうご存じだろう? 奴の盲を」
 本〇翼状の野真とまぐわう空想の情景が仙太郎を戦慄させた。盲人を抱く背徳がこれを押しとどめたのではない。仙太郎の躰は本〇翼の正体を悟っていたのだ。

6

 迎えに来た前川家の車は、赤坂のトンネルを抜け、省線を右手に見下ろしながら外苑の出口へ向かっていた。
 仙太郎もユカリも無言だった。
 内通者の仙太郎は後ろめたい。ユカリには、自分を捨てた実父への執着に羞恥がある。尾けられたのもきまり悪い。
 まだかろうじ明るさの残る夕闇の断末魔が憂悶に沈む少女の横顔を一層凄惨にする。仙太郎には慰めの言葉もない。憐憫はこの誇り高き娘を酷く苛立たせるのだ。
 恥辱を紛らわすようにユカリは不機嫌そうに切り出した。
 「貴方、どう思う。どうしてあの頓痴気夫婦は子どもなんて作ったの?」
 ユカリの母、ミドリに追慕を止められない女々しい仙太郎は愉快ではない。未練を悟られまいと、仙太郎はぞんざいに答えて見せる。
 「頓痴気だからさ」
 少女の顔が不自然な近さに間合いを詰め怒声を放った。その険しさには麗しき科の含みすらあった。
 「まっ、わたくし様のようなまたとなき美麗なる少女の拵えを、よくも頓痴気呼ばわりに!」
 「うるさいなあ。君のそういうところはミドリにそっくりだよ」
 仙太郎は空想する。野間とミドリのやったことは愛の投資ではなかったか。野真直人はあの埋め立て地にやってきた。投資の結果を確かめるべく。
 外苑通りの往来を眺めながら、仙太郎は国境の丘に見捨てられ散っていった衆道たちを想った。
 いったいどれほどの愛を投じれば、この地上は満ち足りるのか?
(つづく)