小説『春の愉楽を抱きしめる(後篇)』

1

 ブルージュのその地下部屋は一泊が100フランにも満たなかった。
 階段を下りて扉を開くと、幅2メートルの部屋に机と衣装箪笥とベッドが詰め込まれている。入口から見て右手には洗面台。そこから壁に沿ってアームチェアと机と箪笥が並んでいる。シミの付いた左手の壁にはスチームヒーターを挟んでベッドが置かれている。鏡の付いた箪笥を開けば、扉はベッドと触れんばかりになる。
 山先卓は外套のまま椅子に腰を下ろした。酸化した脂の臭気が彼を包んだ。
 寝床の眺める。シーツは清潔で乱れはない。
 天井近くの壁には小窓があり、通行人の物憂げな影が行き交っている。
 暗い電灯の下で、自分を捨てた愛慕者の出現を待ちながら、山先卓は慈しみを込めて寝床を眺め続けていた。
 なぜ自分はここにやってきたのか? 
 未練はあった。もう一度あの男を抱いて、その蠢く四肢からどんな微量でもいい、脈の痕跡を見出したい渇望はあった。同時に確たる諦念もあった。本当のところは、敗北を確かめたくこの地下室にやってきた。
 山先は未練を絶ちたかった。それは何度でも蘇り、彼を苛んできた。
 しかし、部屋に姿を現した男がもたらしたのは絶望的な幸福感だった。
 山先は知った。どれほどこの男に会いたかったかを。

2

 野真直人はモスクワに出奔した。山先卓はその真相を知らないでいた。モスクワに身を売ったと信じていた。
 野真は山先の情人となっても、古柴俊夫と関係を続けていた。山先の目を盗んで彼らは逢瀬を重ねた。あの天覧試合以来、生涯にわたって、野真は古柴を愛慕した。
 野真を反間としてモスクワに送り込んだのは参謀本部第二課の作戦だった。
 革命記念日の祝賀で山先は野真を伴って狸穴の園遊会を訪れた。通商代表部を名乗る男がメイド姿の野真に近づいた。モスクワの狙いは山先である。これが作戦の端緒だった。
 野真に相談を受けた古柴は参本第二課長の近田敬道に話を持ち掛けた。古柴は少尉任官時、近田の中隊に配属されている。二人にはそれ以来、交流がある。
 近田敬道は山先を憎んでいた。野真を囲うために神聖なる陸軍を私用に供したのは何たる暴慢恣睢か。山先を罰する意味でも、近田は大いに乗る気になる。古柴の方も野真を山先の魔の手からサルベージしたい。
 二人の思惑が重なり、野真のモスクワ行きは決まった。


 古柴が野真を最後に抱いたのは築地の待合の奥座敷だった。
 野真は春のような男である。不安を表には出さないのだが、この時は、いつにもなく蠱惑的に絡んでくる野真の四肢に古柴は心の震えを感じ取った。
 モスクワに発つ朝、古柴とメイド姿の野真は木挽町の裏路地を並んで歩いた。
 古柴は最愛の男の背中に手を添えて、励ましを口にした。
「楽しんでこいよ」
 悲愁が温もりとともに野真の背に伝わった。
 農商務省の表通りの雑踏に消えていく古柴を見送りながら、彼は背中に残るぬくもりを享しんでいた。永劫に失われないその温もりを。

3

 モスクワの労働大学を出た野真直人は郊外の養成校に教官として配属された。海外で諜報網を築くべく、養成校では派遣要員の訓練を行っている。野真は日本語を教えた。
 養成校には、野真の故国からも交通員が次々と訪れた。彼らの情報は陸軍に筒抜けとなった。野真は、モスクワの陸軍諜報網に深く関与するようになった。
 そのうち、野真を追って京極ミドリがモスクワにやってくる。野真はミドリと結婚。ミドリは野真の反間を知らない。
 二人の間に生まれた娘は上海経由で東京に送られ、ミドリの前夫、前川が引き取った。これがユカリである。
 やがて野真の反間活動を山先が知ることとなる。きっかけは、参本第二課と陸軍省軍務局の確執である。
 作戦立案担当の第二課は参謀本部の花形である。当時の第二課長酒井均はエリート中のエリートだった。この第二課が陸軍省軍務局と険悪の仲にある。
 参本の第二課が作戦立案すると、予算の裏付けをするのが軍務局の軍事課である。  
 軍事課長は予算を通すために大蔵省主計局の主査に平身低頭である。
 主査は削減しろという。
 第二課は足りないという。
 板挟みになった軍事課長はキレる。
 第二課と軍事課に普段から交流があり、作戦立案の過程で非公式に双方が協議を重ねれば避けられる対立だが、第二課長酒井は鼻っ柱が強かった。作戦計画を軍事課にぶん投げること度々であった。
 下僕扱いされてキレた軍事課は政友会陸軍族の先生方に泣きつく。
 陸軍省は今や陸軍族議員に掌握されている。陸軍長老T亡き後には、背広の陸相が誕生するといわれている。ところが参謀本部統帥権を盾に未だ頑張っている。
 これが気に食わない政友会陸軍族の意地悪な先生方が、軍事課の敵を取るべく糞忙しい参本第二課に度重なるレク要求。第二課と軍事課の対立は参謀本部と陸軍族議員の確執にスケールアップした。
 ここにつけ込んだのが政友会内務族の頭目、松野栄太郎である。
 陸軍族の首領たる山先卓と対立する松野栄太郎は、山先を目の敵にする参本に接近して秘密協定を結ぶ。
 内務省警保局は独自のパラミリタリーを欲していた。その母体として松野が目につけたのが”童貞特殊部隊”であった。
 童貞特殊部隊はもともと、陸軍長老Tの肝いりで創設された。軍縮時代にあって、陸相だったTは部隊結成のために奔走した。
 ところが、部隊長に古柴俊夫が就任するや、童貞特殊部隊はたちまち衆道に汚染。扱いに困った陸軍は彼らを大陸に残置した。
 いまや童貞は名ばかりとなった部隊は、国境紛争の鎮静化を待って解体され、警保局が彼らを引き取ることになった。
 内務省は交換条件として山先卓の失脚を謀るべく刺客を彼の許に送り込んだ。
 それは篠塚アラシに酷似したメイドの姿をしていた。

4

 京極ミドリが鎌倉仙太郎邸に来襲した事件を思い返したい。篠塚アラシ酷似のメイド某に狂った黒岩道場の佐竹が道場の資金を横領。そこに端を発した共産党再建資金強奪事件である。
 篠塚アラシは警視庁特高部のフィールドエージェントだった。特高部外事課の再建妨害作戦が事件の真相だった。
 このアラシが転用されて今度は山先の許に送り込まれたのである。
 アラシは生えている。とうぜん衆道家の山先はあの匂い立つ美事な黒髪の束の下に組み敷かれるはずだった。ところがその身を投げた腕の中で、百戦錬磨の衆道家の織成す手管の調べにアラシの肢体はたちまち反応して震え慄いた。
 アラシは屈服して山先の反間となった。
 山先の難攻不落に業を煮やした内務省警保局首脳部はアラシを一旦は引き上げ、新たなる作戦に投じる。奉天赤軍諜報網に深く食い込んだ内務省反間にモスクワから指令が届いたのだった。曰く、交通員をひとり寄こせ。
 警保局の保安課長と警視庁特高部長は協議の末、アラシを送り込んだ。とうぜん彼らはアラシの寝返りを知らない。
 アラシはモスクワ郊外の丘陵にある養成校に入る。
 日本語を教える日本人教官の存在を知る。
 この情報が内務省に流れる。と同時に、山先卓にもたらされた。
 惜慕のあまり、山先は気も狂わんばかりになった。

5

 ブルージュの安宿で野真直人を抱いた山先卓は愛撫に反応して震える野真の筋肉にあの男の影を易々と認めることができた。
 山先は野真の上で、未練を振り払う呪文を幾度も唱え続けた。
 「いっちまえ! いっちまえ!」と。


 帰国した山先は、大臣官邸で陸軍三長官ならびに長老Tと会合を持った。
 参謀総長飯田が松野栄太郎と結んだ秘密協定が山先から披露された。篠塚アラシを通じて山先は取引を知ったのだった。
 長老Tは飯田を難詰すると、寝椅子に深く体を預けながら低い声を出した。
 「松野の手に渡すのはまかりならぬ。あの童貞どもの汚れた血は根絶やしだ。さもなければ後顧の憂いとなる」
 赤軍義勇兵が国境に集結しつつあった。
 古柴の率いる童貞特殊部隊は何の警報も受けないまま放置され、後日、あの丘で十倍に及ぶ童貞兵に飲み込まれることとなる。
 大臣官邸を後にした山先は、その足で日劇地下の東京會舘に赴き、在日通商代表部の某と会食。某を通じて山先は篠塚アラシをモスクワに売る。
 検挙されたアラシの供述によって、モスクワの内務省諜報網は壊滅した。
 陸軍の在モスクワ諜報網は検挙を免れた。ただ一人、野真直人を除いて。野真は陸軍を裏切り、内務省の反間となっていたのだった。
 検挙された野真の顛末は先に触れた通りである。
 アラシの方はマガダンの矯正施設に送られ、衆道家たちの玩弄物となり、更に完璧な篠塚アラシに改造されて送還された。
 アラシは自分を売った山先の許へ戻った。
 山先派議員の反主流派が反旗を翻した時、山先はアラシを送り込んで、反主流派を分断した。
 帰還した野真直人は、山先に一矢を報うべく松野栄太郎と手を組んだ。山先派を分断すべく本〇翼と化した野真を送り込んだのは松野であった。
 しかしアラシによって山先派反主流派の分裂。松野の目論見は潰えたかに見えた。

6

 童貞特殊部隊の残党を率いた野真直人の叛乱は最初から内務省の監視下にあった。
 内務省、市ヶ谷、官邸を目指し、深夜の都心を疾走していたシボレーの貨物自動車は、いずれも検問の道路障害に引っ掛かると、次々と銃対の阻止火力の餌食となった。
 ただ、千駄ヶ谷の総理私邸に向かった一台だけは、魔法のように検問をすり抜け、私邸の正面玄関を突き破り、玄関ホールに乗り上げた。直後、1.5トンに及ぶ硝酸アンモニウムの爆轟により、私邸は主もろとも崩落した。
 かくして長老Tの予言は自己成就した。
 松野栄太郎に組閣の大命が下ったは三日後のことである。


 千駄ヶ谷の爆轟点から半球状に広がった音の波が白金台の山先邸に届くころ、その長躯のメイドは御料地の沿道を進んでいた。
 両脇に並ぶ椎と小楢の木立に覆われた沿道を上りきると、外灯に照らされた白亜の屋敷が浮かんでくる。中央の車寄せには、外灯を背にした小柄のメイドが抜刀して佇んでいる。
 篠塚アラシ酷似のそのメイドは、庭園に現れた本〇翼酷似のメイドを認めるや、スカートを揺らめかせながら切先を向け、黒髪の束の向こうから、澄み切っているがどこか虚ろな眼光を放って、喘ぐように叫んだ。
 「あの人を殺していいのは僕だけだ!」

7

 愛童に刺されるという衆道家の誉に浸りながら、山先卓は自分を殺しにやってくる最愛の男を待ち続けていた。
 布張りされた深紅の椅子が、流血で更に暗く染められる様を眺めながら、隣室から聞こえてきたスカートの擦れ合う音に耳を澄ませた。
 後背の白木の扉が開け放たれた。
 山先の体はもはや自由にならない。
 彼はただ、炉棚の上に架かる鏡を見上げ、闇に浮かぶ血を浴びたメイドの姿に昂然として見惚れ、高鳴る胸の動悸を聞いていた。
 この期に及んでも愛慕が止まらない。それが忌々しい。その忌々しさがうれしくてたまらない。
 山先は若本〇夫声で野真直人の鏡像に呼び掛けた。
 「遅かったじゃないか......」
 アタラクシアに達したその声音には、皮肉と自嘲と安らぎの響きがあった。

8

 庭園を囲む黒い森の葉陰が風に揺れると、湿った夜気が土と血の匂いを運んできた。庭の方々には、篠塚アラシと思しき血に濡れた肉塊が転がっていた。
 玄関の扉が開き、付け柱の間にメイドの姿が現れた。
 庭先にいた鎌倉仙太郎は柄に手をかける。
 血の霧がメイドを覆った。直後、銃声が轟いた。
 仙太郎は玄関に駆け寄り、カウンタースナイプの挙措を試みながら、血の海に倒れ込んだ野真を観察した。フルマントルは右腰から入り左臀部から抜けていた。推測するに、交戦距離は600ヤード。しかも射界外から曲射弾道でフルマントルを撃ち込んできたのだった。
 今の地球でこんな芸当をできるのは唯一人だ。
 跪いた仙太郎は野真を抱き起こした。彼を即死に至らしめなかった弾道の乱れに女の未練を察しながら。
 蒼白の顔には満ち足りた懈怠が浮かんでいる。
 「僕とミドリはけっきょく、こうする以外に愛する術を知らなかったんだ」
 仙太郎は羨望を覚えた。
 「野真、俺は君のことがうらやましい。心の底からうらやましい。あの泣き虫に、君はどれだけ愛されてるのだ」
 野真はしばらく虚空を見つめると、血の気のない唇を震わせた。
 「仙太郎......つよくなったな」

9

 損壊した肉体はやがて意識の建制を保てなくなった。
 無我に飲み込まれ滅びようとする野真直人に、血と肉に刻まれた因果マップは夢を見せた。仮現したその情景の中で野真直人は例によってあの大陸の海辺に到達した。
 野真は砂丘の頂に立っていた。
 眼下の浜辺では、誰よりも勇敢だった衆道たちが、野太い嬌声を上げながら再会した愛慕者と全裸で戯れている。
 地平線に視線を戻すと、濃淡ある不思議な光彩が天穹に満ちていた。
 野真は久しぶりに恢復した視覚を享しみながら、緩く起伏した丘を下って行った。
 陽光が雲間から放たれ、鉛色だった浜辺は色彩を取り戻した。
 風が吹いた。
 飛砂の向こうには大きな背中のかすれた輪郭があった。
 視界が晴れると、衆道たちは無窮の時へ立ち去っていた。浜辺には、海を眺める大男が一人、残されている。
 野真は男の背後に立った。
 男は振り向いて、野真を覗き込むと、殊更に顔をしかめて見せた。
 「久しぶりだなあ、野真学生。しかし、本当に君か? それじゃまるで本〇翼だぞ」
 古柴俊夫の芝居がかった懐かしい挙措に、野真の憔悴は癒された。
 「貴方は相変わらず意地悪だ。わかってるくせに」
 地鳴りのような潮騒だけが二人を包んでいた。
 古柴の顔には晴れやかな笑いが広がった。
 「楽しんできたか、野真学生?」
 誇らしい笑みを湛えていた野真の顔は、慈愛に満ちた男の大塚〇夫声を前にして、崩れようとしていた。湧出する夥しいわななきに耐えながら、彼は叫ばずにはいられなかった。
 「もちろんだよ教官。こんなに人を好きになれたんだ!」


 愛の記憶は鮮明で、失われることは二度とない。
 何度でも恋をして、何度でも好きになればいい。
 この地上は愛の投資に値する。
(了)